通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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序章 戦後の函館市民の暮らし 解題 函館の戦後の日々 |
解題 函館の戦後の日々 P594−P600 第6編で、第2次世界大戦後の函館について述べてきたが、ここでは視点を市民生活の諸側面に向けて、その歴史を振り返ってみたい。とはいえ、すでに半世紀余りが経過しているので、ひとまとめに捉えるのは、なかなか難しいことである。そこで、大きく(1)敗戦後の状況、(2)復興から成長へ、(3)転換期をむかえて、の3つの時期に分けて、さまざまな事象を64話のコラムに仕立ててみることにした。以下、「函館の戦後の日々」を素描することでコラムの解題としたい。 昭和20(1945)年、戦争が長引き、人びとは物質的にも精神的にも、ぎりぎりまで我慢や不自由を強いられていた。男は戦場に赴き、故郷を守っていたのはおもに老人と女性と子どもであった。表だっては口にはしないが、人びとの心の底には早く戦争が終わってほしいという願いが募っていた。日本全土でアメリカ軍の襲撃がなされるなか、7月14日、15日には、ここ函館も空襲を受け、連絡船は壊滅、函館市街も一部爆撃されて死傷者が出た。その後広島と長崎には原爆が落とされ、そして8月15日を迎えたのである。 この年は天候不順で寒い日が続き、7月下旬頃からようやく気温が上がり出したものの、総じて寒い夏であった。8月15日の函館地方は、暑かったと記憶する人もいるが、気象台の記録では、陽が出ることはなく1日中曇っていて、気温は最高でも22.7度で、最低は16.4度と低めだった(函館海洋気象台提供資料より)。 この日、日本が無条件降伏をしたことで、戦争は終わった。戦争終結の安堵感は大きかったが、市民が大きな不安を感じていたのは戦勝国アメリカ軍の上陸であった。その不安が「一般市民や婦女子に対して無謀な行為をする」といったようなさまざまな流言を生み、たまりかねた函館警察署長が「無警告で敵兵が上陸することはない。もし函館港に上陸することになっても平和裡におこなわれるので心配ない」と警告を与えたほどであった(昭和20年8月19日付け「道新」)。だが、こういった警告にも関わらず、しばらくこの流言はおさまらなかった。 占領軍が実際に函館に上陸したのは10月4日のことで、とくに大きな混乱もなく、兵士たちは無事に宿舎へと向かった。心配されていた市民に対する態度も、総じて紳士的であったようである(登坂良作『終戦前後』豆本海峡4)。 ある男性の占領軍にまつわる思い出を紹介しておきた。 「……北大水産学部は米軍の宿舎として接収されていました。そこから排出される米軍の残飯を現在のスパビーチ付近(当時は砂丘)へ穴というよりくぼみを作って、トラックで毎日10台分ぐらい捨てていました……人間生きていくためにはまず食べ物が必要です。米軍の残飯に向かって人々が群がり始めました。残飯といってもアメリカは世界の大国、色々な種類の手つかずの缶詰、軍の携行食、チョコレートなどがどんどん捨てられるのです。これによって命を繋ぎ得たといっても過言ではありません……。」 敗戦直後はみんなが苦しかったとはいえ、とくに立場の弱い女性たちには辛い生活が待っていた。父や夫を亡くした女性などは一家の大黒柱となって、生活を支えていかねばならなかった。それでも支援してくれる人がいたり、手に職のある人は何とかなったが、そうでない人は、自らを売る以外にこの時代を生き抜く方策はなかったのである(コラム3・4参照)。 昭和30年版『はこだての衛生』(市立函館保健所)によれば、この頃、生活のために街角に立つ女性が600人(弁天25人、松風町付近525人、湯の川50人)ほど存在していた。国は昭和31年にもはや戦後ではないと宣言したが、彼女たちはそれをどのように聞いただろうか。 戦地からの復員、旧植民地からの引揚者の問題もあった。ソ連軍の侵攻に遭遇した樺太からは、老人と婦女子を中心とした戦災者たちの緊急脱出が始まったが、8月20日の夕方、函館駅前に6000人の樺太被災者があふれるという事態が起きた。連絡船の欠航などで輸送のやり繰りができず、本州へ渡れなかった人たちであった。彼らは、その夜は路上に新聞紙を敷き、便所もなく、赤ん坊のおしめさえ洗う用意もないところで、一夜を過ごさざるを得なかったのである。このあまりに気の毒な光景に、函館市も渡島支庁も申し訳なかったとしかいえず、翌日からはすぐに収容施設の手配などに奔走した(昭和20年8月22日付け「道新」)。 なお、昭和21年、アメリカとソ連の協定により、正式な樺太からの引揚げが始まり、函館港はその受入れ港となった(コラム1参照)。苦労の末故国にたどり着いた同胞を放っておくことはできない、というのが大方の市民の感情であった。 とはいえ、現実は厳しく、北洋漁業を失って当時「日本一の不況の町」と報道されたこともある函館では、職業安定所は仕事に就けない人たちであふれ、扶助を必要とする人びとが増え続けた。こんな有様であるから引揚者たちにとって、仕事をみつけることは至難の技であった。こうした事情から、昭和24年に緊急失業対策法が制定されると、函館市はただちに失業対策事業を推し進めていった。その仕事の一端は、函館山の観光道路や千代ヶ岱野球場の造成と、戦後の街づくりに大きな足跡を残している(コラム25・50参照)。 ところで、戦後、当面の市民の関心は、食べるものと住むところの確保、それに冬に備えての燃料の調達であった(コラム6・7・9・37参照)。昭和20年は冷害で、農作物の作柄指数は平年の7割程度、このままでは日本中で2000万人が餓死する計算であった。そのため、東久邇宮内閣の農林大臣に請われた松村謙三は、国民に責任をもって食糧を与えられないので、引き受けられないと一旦は断ったほどであった(五百旗頭真「占領期における我が国の対外関係」『外交史料館報』第13号)。 戦争が終わったといっても、相変わらず経済は統制下にあり、物資は配給だった。しかしとても配給だけでは生きていけないので、市民は農村地帯へ買い出しにいき、お金のある人は闇市で必需品を購入した(コラム7参照)。その闇市には、海峡をこえて荷物を運んでくる「カツギ屋」の姿が目立っていた。昭和29年の洞爺丸台風事故では、一般乗客に混じって、少なからぬカツギ屋も犠牲になったという(コラム8・41参照)。
戦後の明るい話題としては、昭和21年の港まつりの再開と函館山の開放などがあげられよう(コラム16・17参照)。港まつりは3年ぶりの復活で、後者に至っては明治33(1900)年に要塞地帯法施行によって一般市民の立ち入りが禁止されて以来であるから、46年ぶりであった。函館山は函館市が観光都市として売り出すにあたっては大きな宝物であったが、後述するとおり、その一方で自然破壊につながりかねない問題をはらんでいた。 本州の主要都市が空襲で大きな被害を受けたことを思うと、エキゾチックといわれる街並みがほぼそのまま残された函館は幸運であった。そのおかげで、観光客がきたし、映画やテレビの舞台として、これまで多くのロケがおこなわれている(コラム32参照)。 占領下にあった日本は、昭和27年に対日講和条約の発効により、国際社会に復帰した。函館市の生命線であった北洋漁業も再開されることになり、復興にむけての市民の意気込みが「北洋博覧会」に象徴されていた(コラム18参照)。函館ドックや函館製網船具、そのほか北洋漁業関連産業は水を得た魚のように好調期を迎えた(コラム21参照)。昭和31年には日ソ国交回復共同宣言がなされ、函館港には、ソ連からの木材輸送船も入るようになった。
駅前・松風町地区には棒二森屋のほかに、彩華(昭和33年開業)や和光(昭和43年開業)といったデパートが建ち、函館の人が「郡部」と呼ぶ近郊の町村からも買い物客がやってきた。また、これら近郊の中学校や高校を卒業して函館に就職する人も少なくなかった(コラム23参照)。 南北海道唯一の「都会」函館には喫茶店が多いともいわれた(右表参照)。自家用車がまだ一般には普及していない頃、路面電車はいつも満員だった(コラム46参照)。函館は、大都市ではないが、賑やかな明るいイメージの小都会といった趣があった。 函館はまさに北海道の玄関口であったから、青森から連絡船が到着すると、そこから吐き出される人の群れは、札幌や釧路などへ向かう特急列車へと吸い込まれていった(コラム55・56参照)。そして、昭和39年、北島三郎が歌った「函館の女(ひと)」の大ヒットで、函館は日本中に知れ渡るようになっていった。 日本の経済成長は止まることを知らず、人びとの暮らしぶりは物質的豊かさを誇る時代へと入っていった。テレビや電化製品がいき渡って、日本中があまり大差なく「文化的な、便利な生活」にはなった(コラム35・36参照)。生活環境の整備も着々と進められた(コラム22・24・26参照)。 しかしそれは、反面函館の個性の喪失につながることでもあった。大型飛行機は発着するようになったが、連絡船は消えた(コラム44・55参照)。市民の台所だった朝市は観光客のものとなった(コラム40参照)。小さな商店は消え、全国チェーンの大型スーパーが進出した(コラム57参照)。 景観も大きく変わろうとしている。啄木が愛した大森町の砂浜はとうに消え去り、函館山の観光資源化の増強が懸念され、唯一の自然河川松倉川のダム建設は中止されたが、総合治水対策は緒についたばかりである(コラム48・49・50参照)。 出生率が低下し高齢者人口が増加しているのは全国的な傾向ではあるが、函館市の場合も図にみるとおり、それは如実に現れている。昭和60年の場合、20歳から29歳までの人口が凹んでいるが、進学あるいは就職で函館を離れる人口がかなり多いからであろう。 西部地区と呼ばれる異国情緒を誇る古い街並みには高層マンションが建ち、観光施設も集中して多くの観光客が訪れるが、若い人たちは郊外に向かい、老人だけが残った。彼らが日常、生活するために必要なものは、生鮮食料や衣料雑貨を売る店、それに理髪店や銭湯に病院などといったもので、瀟洒なレストランや観光土産店ではない。その矛盾は大きな問題である(コラム59・62参照)。 これからのまちづくりには、行政も市民も「何のために、誰のために」という問題意識を真剣に持つ必要があるのではないだろうか。(清水恵)
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