通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム24 砂山の「三本煙突」 |
コラム24 砂山の「三本煙突」 塵芥焼却炉の命運 P718−P722 昭和47(1972)年、あまされものと化していた、「砂山」(コラム48参照)の東部、日乃出町にあった「三本煙突」が取り壊された(市環境部資料)。
ゴ式焼却炉は、昭和2(1927)年にロシア人ヴェ・ツルノフの設計・監理で築造され、約36メートルのコンクリート製の煙突を備えた、ゴ式焼却炉としては日本最大のものであった。その後数年がかりで約30メートル煙突の竪型式焼却炉が2基増設されて、1日に約70トンの塵芥(じんかい)を焼却していた(昭和2年『函館市事務報告書』、昭和26年6月30日付け「函新」、同26年9月21日付け「道新」、「函館市史資料集」第7集)。 この焼却炉が稼働していた頃、函館市民が1日に出す塵芥量は約120トン前後に達していた。函館市は「塵芥都市」としても知られていたが、「勿体なや!ごみ箱へ お金を棄る函館市民」、と報道されて、塵芥には金屑(かなくづ)・襤褸(ぼろ)・硝子屑(がらすくず)や魚菜類など再利用可能な多額な有価物が含まれていることが問題とされていた(『昭和十五年財団法人日本衛生会函館支会年報』、昭和13年3月28日付け「函日」)。 塵芥の再利用は、戦時下の物資不足にあってその必要性は高まっていた。厨芥(ちゅうかい)は養豚飼料の不足を補うために分別収集され、茶殻は軍用保護馬の馬糧に、木灰は加里肥料として近郊農村に供給していたが、徹底されてはいなかった(昭和16年『函館市事務報告書』)。 昭和16年に「汚物掃除法」関連の規則が改正されて、塵芥は焼却処理の原則から「資源厚生」目的の処理へと変わり、施肥と客土に利用することになった(同前)。 市民が1日に出す70トンから100トンに及ぶ塵芥の肥料化が計画され、昭和19年からは本格的に八雲町八木農場の客土として払い下げられ、戦中・戦後を通じて土地改良と食糧増産の一翼を担った(昭和19年1月23日付け「道新」、昭和38年度『清掃事業概要』)。 塵芥処理のエース役「三本煙突」の存在も影が薄くなり、戦時下の資材不足で鉄製ロストル(火格子)の補充ができず煙りを吐くこともなく休業状態となって、戦後もそのまま放置されていた(昭和26年9月21日、同37年8月14日付け「道新」)。
「全国唯一の施設」と報道された、幅30メートル、奥行38メートル、高さ13メートル、建坪320坪(約1056平方メートル)の地上1階、地下1階の鉄筋コンクリート造りの建物は、白い壁面に映えるエンジ色の屋根が、付近の景観に異彩を放っていた。市内から排出される10日分の塵芥700トンを貯留・腐食させ、随時肥料として八木農場へ送り込むことになった(昭和27年12月25日付け「道新」)。 衛生面や臭気問題で地元住民の反対にあったうえで完成にいたった臭気抜き装置を備えた塵芥処理場であったが(昭和27年12月25日付け「函新」)、八木農場の経営不振と清掃法の施行などもあって、昭和30年に塵芥客土は停止された。この年11月以降市が収集・搬出する塵芥は、全量埋立方式に切り替わって、市内や亀田町・上磯町の沢・凹(おう)地、湿地などの埋め立てに利用されていった(前掲『清掃事業概要』、大渕玄一『函館の自然地理』)。
塵芥の埋め立ても年々排出される塵芥量の増大と塵芥内容の変化に対応が困難となって、新たに焼却炉の建設が必要となった。 昭和47年、大森の浜風に空しく立ちすくんでいた「三本煙突」の旧焼却炉が解体・撤去され、新たに「ゴミ焼却工場」が建設されて稼働を開始したのは昭和50年のことであった。 それから25年、市民や産業界の出す「ゴミ」は年間に約24万トン前後に達し、その内容も多種多様となった。 人口は昭和50年代後半をピークに減少傾向にあるが、ゴミの量は減っていない(下表、下図参照)。 現在、函館市が焼却している「燃やせるゴミ」は年間10万トン前後である(平成11年度『清掃事業概要』)。 焼却による有害な物質、ことに内分泌攪乱化学物質(環境ホルモン)の排出が、あるいは廃棄物などの管理や処理いかんが、自然環境や生活環境に大きな負荷をもたらすことがわかっている現在、廃棄物をなるべく出さない、資源循環型の生活様式をいかに創り出していくかが早急な課題となっている。(桜庭宏)
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