通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム46 函館の顔、路面電車 |
コラム46 函館の顔、路面電車 戦後を支えて走ったチンチン電車 P829−P833 戦時統制下の昭和18(1943)年、道南電気軌道株式会社を函館市が買収、11月1日函館市役所交通局が誕生し函館市内の電車、バス事業を開始した(函館市交通局『市電50年のあゆみ』)。敗戦を迎え、市電は復興にむけての市民の足として期待されたが、資材不足による故障と食料不足で病気になったり、買い出しに行ったりして、欠勤する者がいたため十分な職員数が確保できず、運転率が低下して大混雑という状況にあった(昭和20年10月31日付け「道新」)。市電の全面運休も危惧されたため、打開策として弁天終点から函館船渠(昭和26年から商号は函館ドック)まで引込線を敷設、同工場で故障車両を修理することもあったという(同20年12月27日付け「道新」)。
昭和23年、大混雑の市民の足を緩和すべく交通局では新車の大型ボギー車15台を投入し運転を開始した。定員80人、出入口が3か所で、詰めると250人が乗れる、3扉大型電車の登場である(昭和23年10月30日付け「道新」)。この電車は500型と呼ばれ、今も数台がその面影を残して元気に走っている。 さて、市民の足、市電の運賃であるが、昭和22年3月以来めまぐるしく値上げが繰り返されている(函館市交通局『走りました八〇年』)。昭和23年11月には運輸省が認める最高額の6円になった(昭和23年11月14日付け「道新」)。バス部門の赤字を埋める苦肉の策として市電運賃が値上げとなったのである。この運賃も昭和26年頃より市電収入が黒字に転じたことにより、30年代までは安定したものとなった(前掲『走りました八〇年』)。
しかし市民の足、市電の経営も昭和36年からは毎年赤字となってきた。ベースアップによる人件費がかさんできたことが大きな要因となった(昭和42年7月26日付け「道新」)。料金の値上げが繰り返され、またマイカー時代の影響をまともに受けて利用者数も昭和39年度をピークに激減していった(図参照)。昭和38年からは、溢れんばかりの乗客を乗せていた時代に登場した3扉電車も中央ドアを締切扱いにするなど赤字と利用者減少のため合理化を余儀なくされていった(昭和38年9月5日付け「道新」)。 昭和40年代、モータリゼーションの急速な進展により市電は時代遅れの道路の邪魔者扱いされ、東京都電をはじめ全国各地で廃止があいついだ。廃止された東京都電の中古電車を函館市交通局が購入し運転したことも市民の話題となった(昭和45年3月1日付け「読売」)。 函館市でも昭和45年、市交通審議会により市電全廃が答申された(昭和45年9月19日付け「道新」)。しかし、明治の馬車鉄道からスタートし長い歴史を誇る市電だけに、市民には根強い愛着があり当然廃止反対運動がおこってきた(同45年9月22日付け「道新」)。紆余曲折を経て昭和52年に函館市が発表した『函館圏総合計画』では、市電は将来的に順次バスに転換し、路線は縮小再編成するとされ、全廃は打ち出されなかったのである。市民運動のひとつの成果であろう。 しかし慢性的な赤字経営はどうすることもできず、昭和53年ガス会社前・五稜郭駅前間の廃止に続き、平成3(1991)年発表の『函館市交通事業健全化計画』に基づき平成4年に東雲線廃止、翌5年にガス会社回り線を廃止し現在に至っている。 近年、ヨーロッパでは廃止された路面電車が都市の環境問題から今度はマイカーを追い出すために復活、日本でも建設省などが進化した路面電車「LRT」(ライトレールトランジット)建設に助成制度を設けるなど路面電車復権の兆しがみえてきた(鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル99年11月号」)。早々に廃止された都市での復活も検討されているという。 一時は公営市電のなかで最長路線を誇っていた函館市電も、路線は縮小されたが、市民の足として愛され、函館の顔として毎日コトコトと街中を走っている。(尾崎渉)
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