通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム47 交通戦争から児童を守った橋 |
コラム47 交通戦争から児童を守った橋 歩道橋と函館唯一の五稜郭地下歩道 P834−P838 昭和31(1956)年刊行の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と復興が高らかに宣言され、以降、日本の高度経済成長期を迎えることになる。この時期、庶民の生活にもゆとりが生まれテレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機のいわゆる三種の神器が普及していった(コラム36参照)。
函館陸運事務所管内の自動車保有台数をみてみると、昭和30年には約3200台だったものが、10年後の 40年には約1万6000台と5倍になっている(『函館市史』統計史料編)。自動車の増加にともない交通事故の激増が大きな社会問題となってくる。これに対応して、とくに児童生徒の交通事故防止対策が急務とされた。 昭和38年4月、大阪に日本初の横断歩道橋が完成し(岩波書店『近代日本総合年表』)、以来昭和40年代に入りこの横断歩道橋が交通事故防止の有力な施設として全国的に普及していった(北海道道路史調査会『北海道道路史技術編』)。 函館でも昭和42年9月に函館開発建設部により、新川中学校前に歩道橋が設置されたのを皮切りに(「函館市史年表草稿」『続函館市史資料集』第2号)、翌年3月16日、市内で3か所目(2か所目は湯川交差点)となる松陰歩道橋が完成、渡橋式がおこなわれた(昭和43年3月16日付け「道新」)。これは函館市が設置したものとしては、第1号である。 松陰歩道橋が設置された道路は、10年間に7人が死亡する危険な道路といわれ、この道路により南北に分断された柏野小学校の児童約500人が横断しなければならなかった(同前)。また昭和34年からは拡幅工事が開始され(昭和39年8月13日付け「道新」)、整備がすすむにつれて交通量もさらに増加していった(図参照)。
市内にはこの後、昭和43年度に市が3か所、函館開発建設部が2か所の新設を予定するなど(昭和42年3月16日付け「道新」)、小・中学校付近を中心に横断歩道橋がつぎつぎと誕生していった。 一方、都市計画街路五稜郭電停・湯川温泉間は市道拡幅にあわせ、沿道には銀行の進出など新しい商店街が形成され(昭和39年8月13日付け「道新」)、とくに本町の五稜郭交差点付近を中心とした副都心づくりが本格化した(同43年10月3日付け「道新」)。そして昭和44年10月、十字街から移転した丸井デパートが同地区にオープンしたことで名実ともに駅前地区につぐ副都心が誕生した。 この五稜郭交差点付近では朝夕のラッシュ時に、一時間に2000台近い車が往来して交通不安地帯になっており、このため交通安全施設として函館初の地下歩道建設が計画されたのである(昭和44年2月17日付け「道新」)。地下歩道は北海道では昭和40年、豊浦町に児童の安全な通学路確保のため設置されたのが最初である(北海道新聞社『北海道大百科辞典』)。 五稜郭交差点の地下歩道は昭和44年8月着工、10月に竣工した。歩道からの入口のほか丸井デパートと向かいのホリタストア(現ダイエー五稜郭店)にも地下入口を設置した便利なものとなった。
函館でも地域要望で設置された松陰歩道橋が多少の利用があるほかは(昭和46年2月17日付け「道新」)、通学児童以外の利用者が激減した。急な階段の昇降がきらわれたのが主な原因のようだが、歩道橋のために見通しが悪くなったなど評判はガタ落ちで、地下歩道が望まれるようになった。しかし、地下歩道は約1億円と高額なため(同前)、結局函館では五稜郭交差点の1か所だけとなった。そして横断歩道橋も次第に設置されなくなり、湯川歩道橋のように撤去されるものもでてきた。 最近では高齢者のために信号機付の横断歩道設置が目立ち、五稜郭交差点の地下歩道前にも横断歩道が復活、地下歩道の利用も少なくなってきている。 松陰歩道橋もとうとう不要となり、地域の人びとに惜しまれ、さよならイベントが開催された。平成10(1998)年11月限りで老朽化のために通行止めとなり、その後撤去された。柏野小学校の児童は今は新設された横断歩道を渡り通学している。 市内に残るほかの横断歩道橋も老朽化から将来撤去されると思われる。「交通戦争」から児童生徒を守った歩道橋もいずれは消え去る運命なのであろう。車から、歩行者が主役の時代になることを示唆しているように思われる。(尾崎渉)
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