通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム36 家庭電化製品の登場 |
コラム36 家庭電化製品の登場 函館での普及度は? P778−P782 戦後間もない昭和25(1950)年の朝鮮戦争特需による経済復興は、昭和30年から32年頃まで「神武景気」と呼ばれて「消費美徳時代」を産んでいった。昭和31年の「経済白書」が、「もはや戦後ではない」と記して戦後復興と経済の近代化宣言を発し、以後日本は高度経済成長の道を歩むことになる。これを象徴するかのように、急速な家庭電化製品の普及は、一般家庭におよび、とりわけ電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビは、神武景気の名に乗じて「三種の神器」と呼ばれ、消費の花形製品となった。
そもそも日本での家庭電化製品の製造は戦前から着手されていたが、戦争ですべて中断された(弘文堂『大衆文化事典』)。戦後は、GHQの需要があったため、各家電メーカーがその要請に応えて製造を開始したのであった。 GHQ向けの扇風機の生産や冷蔵庫の開発製造は昭和21年に着手され(家庭総合研究会編『昭和家庭史年表』)、洗濯機も製造を開始してから25年5月に打ち切りが通告されるまで、納入されていた(前掲『大衆文化事典』)。これらGHQ向けの製造が打ち切りされた時、いよいよ各メーカーが国内市場の開拓に力を入れたのであった。 家庭電化時代を迎えようとする昭和20年代後半から全国的に電気製品に関わる宣伝広告が新聞紙面を賑わせるようになった(講談社『昭和二万日の全記録』第10巻)。 昭和29年の函館市内の電気屋事情を当時の新聞報道からみてみよう。乾電池、電球をはじめ、すでに一般に普及しているラジオが売れゆき不振のため、それをカバーするために「家庭の文化は電気器具から」と懸命な宣伝につとめている。
昭和30年には会社や商店にほぼいき渡った蛍光灯でも、一般家庭で使用されているのは全戸数(およそ5万戸)の約1割でしかなかった。それでも電気器具のなかでは普及度は高いという状況であった。電気洗濯機に至っては、一般家庭の利用は300台と推測されている(昭和30年3月23日付け「道新」)。 函館で電化製品が一般家庭に普及しはじめたのは、30年代なかば以降のようである。函館市商工部が昭和39年におこなった函館市民の生活、消費動向調査の結果が新聞に掲載されているので、紹介しよう(昭和39年10月30日付け「道新」)。 これによると、もっとも普及度が高いのがテレビで、82パーセントの家庭がすでにテレビを保有していて、1家に2台あるというのも8.7パーセントであった。次に高い率を示したのが電気洗濯機で49パーセントというから、ほぼ半数の家庭にはいき渡っていた。しかし電気掃除機は23.5パーセント、電気冷蔵庫は19.9パーセントと、この2つを持っているのは、まだ5戸に1戸ぐらいであった。 30年代に入ってからは、月賦販売などのクレジットが普及しはじめ、それにより家電製品の購入も促進されたという背景がある(コラム54参照)。本格的な家庭電化時代の到来は、一般家庭のこれまでの消費生活とライフスタイルを大きく変えていった。
また、この随意的支出のうちの耐久消費財をみてみると、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機など家事労働合理化用と、テレビ、ステレオ、カメラなどのレジャー消費用の比率が変化している。昭和38年と39年では前者の伸び率が8パーセントだったのに対し、後者は11.7パーセントであった。家事労働の合理化用から、レジャー型の消費財購入へと変化があったことが注目された(前掲『北海道年鑑』)。
なお、テレビはこの頃に、どんどんカラー化が進んだことがわかるが、昭和48年の同調査では、100世帯に96台という割合で普及していた。 この調査結果からみる限り、ひとくちに電化製品といっても、北海道では扇風機よりも電気毛布の保有率が高かったり、電気ストーブは石炭や石油ストーブに比べ、かなり経費がかかるので普及しなかったなどの特徴がみえて、興味深い。(長谷部一弘) |
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