通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム35

テレビ放送の開始
新しい茶の間の主役へ

コラム35

テレビ放送の開始  新しい茶の間の主役へ   P773−P777


NHK函館放送局(昭和37年、「道新旧蔵アルバム」)

北洋博では「電信と電話館」も解説された(『北洋博写真集』)
 昭和32(1957)年3月22日、函館山に建設されたNHK函館放送局から発信されたテレビ電波は、函館市内はもとより道南一帯へ届き、テレビジョンの本放送が開始された。北海道では札幌市に続き2番目で、全国でも8番目と比較的早く、ラジオによる聴覚だけの世界から視覚の世界も兼ね備えたテレビ時代の幕開けとなった(昭和32年4月1日付け「NHK新聞」)。
 日本でテレビ放送が開始されたのは昭和28年2月のNHKの放送からで、当初は東京や大阪といった大都市を中心とした地域だけのものであった。その後、次第に地方へと広がっていったが、北海道地域の本放送が全国的にも早かった理由としては、昭和29年開催の北洋博覧会において、民間放送局のHBC(北海道放送)が北海道最初のテレビ実験放送をおこなったことがあげられる(コラム18参照)。53日間にわたったこの実験放送は大好評を得たが、なかでも最大の目玉は、北洋博覧会視察のために来道した天皇・皇后の姿が放送されたことであった。青函連絡船洞爺丸のメインデッキ上に立つ天皇・皇后の姿が、テレビカメラのレンズにはっきりと映し出され、デッキから降りるまでの様子が刻々と伝えられた。このテレビの威力を十分に発揮した実況放送が成功裏に終わったことが、テレビへの人気を高めることになり、まだ東京や大阪でさえ軌道に乗っていなかったテレビ放送が、全国においても早い段階で開始されることにつながったという(『北海道放送十年史』)。
 一方、受信の方法としては、実験放送にあわせて、「動く電波」を家庭でキャッチし、さらに明後年の本格放送利用に備えてほしいという触れ込みで、函館市内のラジオ屋の店先にテレビ受像機が並べられが、肝心の値段が8万円から大型のもので22万円と高く、新しいもの好きで裕福な人を除けば、なかなか手の届かないものであった(昭和29年7月2日付け「道新」)。このためテレビ局開局当初の昭和32年4月でNHK函館放送局に受信届出のあったテレビ受像機は1200台ほどで、普及率は低かった(同35年3月10日付け「道新」)。

テレビに見入る子供たち(昭和34年頃)

テレビ受像機の登場を伝える記事(昭和29年7月2日付け「道新」)
 当初は、喫茶店などの営業用や、会社や官公庁の応接間用、さらには電気屋の店先の宣伝用などが主であった。(昭和33年8月28日付け「道新」)。駅前や街頭などにも大型テレビが設置され、そこには大勢の人びとが集まり、熱心に見つめている光景がみられた。また、自宅にテレビを設置した家は、ごくわずかだったので、テレビを購入した家には、夕方から夜の時間帯になると、これまであまり近所付き合いのない人まで集まるようになり、さながらテレビ見物の集会場となるような現象があちらこちらでみられるようになった。

放送開始直後の番組表(昭和32年3月24日付け「道新」)


テレビの宣伝広告(昭和33年8月3日付け「道新」)

 昭和33年12月15日には、函館最初の民間放送テレビとなるHBC函館放送局が開局し、テレビ局は2局時代を迎えた。この頃から大相撲やプロ野球、さらにはプロレスの中継をきっかけにしてテレビ受像機の普及が一種のブームとなり、急速に各家庭の茶の間に広まっていった。とくに、神武景気と呼ばれるめざましい好景気のなかで、団地や官舎、社宅などでは1軒につけば、たちまちアンテナが立ち並ぶという現象も珍しくはなくなった。
 この傾向が飛躍的に伸びたのは、昭和34(1959)年の皇太子ご成婚の時であり、家庭用の14インチテーブル型が主流となった。また、ひところのテレビ受像機の値段の高さも、生産コストの値下げや月賦販売の普及などから買い求め易くなっていた。昭和33年には10.6パーセントだった普及率は、翌34年には一気に27.5パーセントに跳ね上がり(図参照)、電気洗濯機、電気冷蔵庫と並び「三種の神器」と称されるようになった(コラム36参照)。昭和34年度年の函館市の普及台数は1万3000台余り、5.8戸に1台の割合で、札幌市の7.1戸に1台を上回る勢いであったが、東京都に比べると2分の1程度で、まだまだ各家庭でゆっくりみられるような台数までには至っていなかった(昭和35年『函館市勢要覧』、「函館市広報資料」第24集)。
 こうしたなかで、昭和35年8月1日、NHK函館教育テレビジョンが開局となり、学校教育をはじめ社会教育にも大切な役割を果たすものとして、大きな期待が寄せられた。
 さらには、昭和36年12月27日、STV(札幌テレビ放送)函館放送局が2つ目の民間放送局として開局され、多チャンネル時代への始まりとなった。
 こうして、年々普及に拍車がかかり、1年ごとに生産と販売が倍増ペースとなり、テレビは、生活の大きな変化の引き金となった。ともすれば、テレビのスケジュールに合わせて生活が規制されるようになり、ますますテレビの存在が大きいものとなっていった。(田原良信)
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