通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム34 ダンスホールの再開 |
コラム34 ダンスホールの再開 戦後を彩るステップ P768−P772 昭和15(1940)年10月31日、都市部のダンスホールは「時局」をかんがみ閉鎖され、昭和19年3月の「決戦非常措置要綱」により、享楽追放の理由でバー・カフェーなども営業停止となっていた。
昭和20年12月、函館高等水産専門学校(現北海道大学水産学部)を宿舎としていた占領軍から「十五日土曜日の夜、当所のダンスパーティーに良家、未婚の女子十数名を招待し度い−午后七時に迎いの自動車をさし向けるから宜敷く頼む」との通達があったように、当初は占領軍の要請でダンスパーティーが開催されていたようである(本山まさな『百貨店は業種「丙」』)。
キャバレーは市民から好奇の眼でみつめられた。開店後2か月を経た頃、ニューハコダテのダンサーは150人で、ショップガール、映画館の窓口嬢、列車の食堂ガールが転身してきていた。表面の華やかさに反して、一家を養ってきた女性が大半であった。世間のダンサーに対する誤解を一掃しようと、経営者は厳重すぎるほどの規律をしき、閉店後もダンサーを方向別に送り届けるほどであった。チケットは1回3円、7分3分の割合で90銭がダンサーの収入となる。開店直後こそは1晩500人の客があって、収入は月1000円にも達していたが、翌月には客は一晩60、70人、収入も月600円、客のいないダンサーが半数という閑散ぶりであった(昭和21年3月11日付け「道新」)。 昭和21年10月に舞踏税10割課税が施行され、ダンスホールにおけるダンスチケットは6円となり、その内訳は税金が3円、業者1円80銭、ダンサー1円20銭となった。専属のダンサーと踊るダンスは一般勤労者の娯楽から、一転して特権階級の娯楽になっていった。当時サラリーマンの月給が350円ほどであったのに対して、ダンサーの月給は500円から1000円と高収入であった(前掲『昭和キャバレー秘史』)。 昭和22年、函館市内の数か所のダンス研究所が取締当局によって閉鎖された。すでに前年の6月に、警視庁は「キャバレー・ダンスホール・ダンス教習所規則」を発令、増加するダンスホールやキャバレーを許可制とし、営業の定義と建物の構造などを規制していた(同前)。函館市内のダンス愛好家は増加し、公認ホールのほかに、専属ダンサーを置かず、常連の女性客に相当の手当を出し、しかも、常連客から会費と称して高額の料金をとって、税金は1銭も納めないクラブもあった。税金を納めていた研究所が取り締まりを受け、取締当局などの知人が関係しているクラブは取り締まりを逃れるという風評もあって、ダンス教師からは公正さに欠ける処置だ、という声もあがっていた(昭和22年9月17日付け「道新」)。
昭和27年、函館市内にはクラブ制度の教習所2軒、レッスン専門の教習所1軒、ホールになっている教習所が大門に3軒あった。教習所はほとんど毎夜、満員の盛況で200人近い近い男女がホールでひしめき合っていた。ホールは1人1回40円の入場料で、夜間のレッスンは30分で50円の教授料と高かったから、専門にレッスンを受ける人は少なく、アベックまたは男性同士あるいは女性同士の2、3人が連れ立ってホールにいき、知り合った者同志で踊っていた。大半が20歳前後の青年男女で、なかには、「愛情発散患者」の組もあり、キャバレーさながらの場面もみられたため、警察署も取り締まりの目を光らせていたという(昭和27年11月11日付け「道新」)。 しかし、大多数は純粋にダンスを楽しみ、あるいは技術に磨きをかけるためにホールに通っていた。末広町の金森ビル5階のダンスホールに通った女性によると、ダンス用の靴を持参でホールに出掛けて行き、ホールでは「誘われれば踊り、誘われなければ壁の花」、踊り終わると「さわやかにお別れ」であったという。また、勤めの帰りに「一杯飲んで帰る」感覚と同様に、職場の同僚が誘い合ってキャバレーやダンスホールにいき、気軽にダンスを楽しんだという。社交ダンスブームを物語るように、キャバレー、ダンスホールおよびダンス教習所の数は昭和20年代後半から急増し、昭和26年の時点では、ダンス教習所だけでも「ユニオン」や「ホノルル」、「田邉社交ダンス教室」など6つの教習所の名前がみられる(1951年版『函館・道南人名録』)。 昭和30年代頃から、マンボが流行し、男女が離れて踊るようになり、エルビス・プレスリーの人気とともにツイストが流行する。昭和40年代にはゴーゴーが流行し、ダンスホールはゴーゴー喫茶に姿を変える。函館においても、「ポップ」、「名も無い店」などのゴーゴー喫茶が登場してくる。次第に社交ダンスは下火になって、次々とダンスホールが姿を消していったのは、昭和40年代であった(前掲『戦後史大事典』、当時函館西高校生徒談)。(霜村紀子)
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