通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦後の状況

コラム3

女性たちの解放
公娼制度の変遷とその実情

コラム3

女性たちの解放  公娼制度の変遷とその実情   P612−P616

 公娼とは、「本人真意」のかたちで特定の地域(遊郭)内で営業(売春)がゆるされていた娼妓をいう。その人びとに政府が鑑札を与え(税金を取って)公認するという非人間的な在り方に対して、キリスト教関係その他の人びとを中心に明治10年代から廃娼運動が展開されてきた。廃娼すなわち公娼制度の廃止は、女性たちの願いのひとつであった。
 往時、東京以北最大規模といわれた函館の遊郭は、戦争で貸座敷数も娼妓数もかつての勢いは消えていたが、そのまま遊郭の消滅とはいかなかった。函館大門にあった公娼街大森遊郭では、敗戦直後廃業した業者もいたが(西嶋彰子『あざみ自書』)、皮肉なことに昭和20(1945)年10月のアメリカ軍による函館占領とともに息を吹き返すことになった。
 敗戦3日後の8月18日、日本政府は内務省警保局長名で全国の警察部長に「進駐軍関係特殊慰安施設の設営」を指示した。翌9月22日、函館市町会理事会が市役所で開かれ、「連合軍進駐について慰安所設置方促進に関し申告の件」等を協議した(昭和20年9月23日付け「道新」)。連合国軍の日本上陸にあたり政府は、日本軍が戦場や占領地でしたことと同じ扱いを受けるであろうと考えた。新聞には「誤解される厚化粧、愛嬌笑ひも禁物、服装、態度は端然たれ」(同20年10月2日付け「道新」)とアメリカ軍を迎える道民の心得を説き、そして″良家の子女の防波堤″として慰安婦を募集したのである。
 当時函館市長だった登坂良作が回顧して「ある時、(警察署長と二人、アメリカ軍将校に)売春婦のことで呼ばれました。一晩に八人のケガ人が出たというのです。……ケガというのは性病の伝染のことなんです……すったもんだの挙句、息抜きの場所を二か所作った。……将校用は湯川の……、下士官以下のは今の宝来町の……。行列を作っていました。婦人たちはどこから来たか分かりませんが……過去にそういう経験をもった人々でしょうね。函館の女の人は少なく、よそから来たのが多かったようです。それがあったために一般の市民にあまり被害がなかったとも言えます……」と語っているが(『終戦前後』豆本海峡4)、占領軍専用慰安施設設置に至る事情がうかがえる。

新聞に出た広告(昭和20年10月28日付け「道新」)
 新聞の広告欄には占領軍の来函直後から、大森遊郭内の楼主のほかに湯川と宝来町の旅館や料理割烹店あるいは個人名で「接待婦」「芸妓及び接客婦」「慰安接客婦」を「急募」、または「至急募集」している広告が、繰り返し載っている。
 市長は、函館の女の人は少なく、経験者であるように語っていたが、当時湯川でアメリカ軍相手の接客婦検査所に選ばれた病院の院長夫人は、「戦時中函館市内の見番は火の消えた様になり、芸者だけでは食べていけなくなり、いろんな仕事をしていたようです。接客婦になったのは芸者の他に、一六、七歳の娘さん、外地からの引揚者が多かったけれど、函館の女学校を出たばかりの娘さんや普通の家の娘さんもいました。期間は三ヵ月くらいだったかな……」と語っている(酒井嘉子「湯川・川又病院時代のこと−川又 靜さんに聞く−」『道南女性史研究』第10号)。

大森遊郭付近(昭和31年6月17日付け「道新」)
 GHQは翌21年1月21日、「日本における公娼の廃止に関する覚書」を発表し、24日「公娼制度廃止」を命令した。内務省はこれを受けて娼妓取締規則および関係法規を廃止して明治時代から存続した公娼制度は廃止された。
 1月26日付けの「北海道新聞」は「昔懐し、大森遊郭、八○年の歴史に終止符、……長い間女性を束縛し金の奴隷として扱って来た″大森遊郭″は襲来せる自由民主主義の激浪によつて跡形もなく流される」と書き、業者は女の身の振り方さえ決まればいつでも料理専門業に転業の準備を進めていると報道した。
 しかし皮肉なことに結果として街娼が増加した。同年秋に政府は「私娼の取締り・発生の防止及び保護対策」を決定したが、警視庁は社会上やむを得ない悪として特殊飲食店など集娼地域を指定した。警察などで地図に赤線を引いて示したことから「赤線地帯」(その周辺の私娼の集まる指定外区域を青緑地帯)と呼んだが、事実上の公娼の復活であった。生きるために家族のためにやむなくそうせざるを得なかったこれら女性は、夜の女、闇の女、パンパンガールとして函館でもしばしば警察の狩り込みの対象になった。
 新聞報道の見出しを拾っただけでも、「ピンク街に旋風、悪質娼婦など三十数名挙がる」(昭和25年6月14日付け「道新」)、「異口同音″食う為″函館市内の夜の女激増」(同25年7月17日付け「道新」)、「悲しき辻姫の″白書″大半占める未亡人」(同25年7月31日付け「道新」)とあり、当時の実情がうかがえよう。
 こうした事態がある一方で、風紀の乱れ、教育環境の悪化、性犯罪の増加などを憂慮して、売春禁止・公娼制度復活反対の声は日増しに高まっていった。人権尊重の世論を背景に、昭和31(1956)年5月、5回目の国会提出でやっと、「売春防止法」は可決成立し、32年4月に施行され(33年に罰則規定実施)、赤線地帯・元の大森遊郭は営業を停止した。
 すでに函館でも労働組合婦人部などを中心に「女性を守る会」が結成されていたというが、売春防止法の施行とともに市役所内に婦人相談所が開設され、婦人相談員2名(男女各1名)が配置された。
 当初から28年間婦人相談員として活躍した酒井米子は「……当時函館市は売春防止法が施行され赤線地帯の要保護女子が解放されても稼働先の受入者がなく、……その対策として市内の事業主、族館主、一般商店主二〇名ほどと多発地区内の民生委員、行政も含め連絡協議会を作り要保護女子の援護にあたっていました。三三年頃と記憶しています」と語っている(婦人相談函館職親会『創立二〇周年記念誌』)。
 昭和30年8月7日付けの「北海道新聞」は 「市内には千名を越える接客婦が存在する」と書いているが、その女性たちを保護・援護することができたのだろうか。生活のために売春せざるを得なかった女性が職場を開拓できるようにと、連絡協議会の事業を引き継いで、相談員の協力団体として「婦人相談函館職親会」が組織された。それは、15年後の昭和45年4月のことである。(酒井嘉子)

取り壊された大森遊郭(昭和33年8月26日付け「道新」)

売春防止法完全実施日当日も街角に立つ女性(昭和33年4月1日付け「道新」)
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第7編目次 | 前へ | 次へ