通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第1章 敗戦後の状況 コラム4 父や夫の帰らなかった家 |
コラム4 父や夫の帰らなかった家 母子家産の実相 P617−P621 長かった戦争が終わり、戦地や旧植民地から男たちが次々と帰還した。ガリガリに痩せ衰えていても父や夫、息子の帰ってきた家は幸せだった。しかし函館でも多くの母子家庭が生まれた。当時どのくらいの母子家庭が存在したかその数は不明だが、生活保護法が施行されるまでの救済福祉計画(生活困窮者緊急生活擁護)に基づいた母子保護法の適用を受けた世帯数は記録にある。昭和21年『函館市事務報告書』によって、保護世帯の内訳をみると、居宅で生活扶助を受けた世帯は187で、平均36円48銭を支給されている。同じく養育扶助を受けた子どもの数は756人で、1人平均17円97銭を支給されている。したがって、1世帯平均にすると母1人に4人の子どもがいたことになる。 母子家庭といっても、父や夫のいない理由は多様だが戦死、戦災などによる″戦争未亡人″や未復員、引揚者、貧困、離婚、遺棄など戦争にかかわるものが圧倒的多数であった。少し例をあげてみよう。 昭和21(1946)年1月末、夫がパラウ島で戦病死したという通知が届いた丸町キン(41歳)は、それを信じることができなかった。子どもの写真・印鑑・戦争保険証・財布などが届き淡い期待はうち消された。現実は3人の子に兄の子を合わせ4人の養育に働かねばならなかったが、運よく再就職ができた。それというのも敗戦直前まで電話交換手として働いていたからである(酒井嘉子「電話交換手として−丸町キンさん−」『道南女性史研究』創刊号)。 同じく21年3月、夫が中国の野戦病院で死亡したとの通知を受け取った浅野かつ(30歳)は3人の幼児を抱え疎開先から帰ったが、家業のそば屋の店舗は区画整理で取り払われ、護国神社下の市場に場所借りをして天ぷら屋を開業。やがて資格を得て、昭和29年から侑愛会七重浜保育園(おしまコロニーの前身)勤務を経て当別保育園園長として働き生活を支えた(浅野かつ「戦後に生きる」『道南女性誌研究』第6号、浅野かつ談)。 しかし、手に職もなく、農家・商家・漁家など家業のないサラリーマンの妻の場合はどうだっただろう。昭和30年8月7日付け「北海道新聞」は「闘う″戦争未亡人″」の見出しで次のように報じている。 昭和24年夏、東京で開かれた婦人民生委員の大会に函館から代表として参加した清重源江(64歳)ら2人は「戦争未亡人の三分の二までは接客婦として生きている」という報告に驚き、函館に帰って白菊会を結成した。安定した職につくことを目指し約500人の未亡人≠ェ集まったという。青山トキワ(56歳)は樺太(サハリン)で夫を抑留され、1歳に満たない赤ん坊を含め4人の子どもを抱えて敗戦直後帰国。生活扶助を受けずに養育しようと保険外交員として働き、昭和26年1月、この白菊会に生命保険会社の同僚ら18人と分会を組織して加入し、初代分会長を務めたという。 昭和30年当時、市内には約4200世帯の母子家庭があり、そのうち410世帯が生活扶助を受けていた。公的な法整備はなかなか進まず、かつ不十分であったが、市内には3つの母子寮(現在の母子ホーム、母子生活支援施設)が存在した。 松陰寮は戦前、函館市の方面委員(後の民生委員)の提唱で「戦没軍人、軍属の寡婦の宿舎と職業指導(授産)を目的」に、常盤寮と称して軍人援護会が経営していた。昭和26年市の民生事業助成会が引き継ぎ、松陰母子寮と改称した。昭和31年3月までの入寮世帯数は58、母の平均年齢は34.4歳、平均児童数は2.4人。入寮理由は離婚6以外は死別33、生死不明19となっていて死別と行方不明合わせると52世帯、89.6パーセントで、戦争が大きくかかわっている。 高砂寮は昭和29年春、高砂保育園開設と同時に開設を準備し、秋に5世帯で始まったが31年3月までの入寮世帯数は16世帯であった。母の平均年齢は35.1歳とやはり若く、平均児童数は2.5人である。離婚2以外はここでも死別世帯で、87.5パーセントになる。34年には増改築工事がおこなわれ、収容世帯数は20世帯に増えた(北海道社会福祉協議会・母子生活支援施設協議会『北海道の母子生活支援施設のすがた』、昭和34年3月28日付け「道新」)。
ところで昭和30年で、3施設合わせて126世帯の母子家庭しか収容できず、4200世帯の3パーセントに過ぎなかった。地元紙は「母子世帯は十分な保護を受けているでしょうか。……母子寮に収容されている母子世帯は環境的に恵まれているほうですが、職業、住宅、医療保護、税金、子供の教育問題など……あらゆる面にわたってもっと温い手を」と書いている(昭和30年6月18日付け「函新」)。 「終戦を迎えた国内は一挙に数多くの母子世帯が生まれ……五人の子供を残された私は、……戦争によってこのように数多くの母子世帯が生まれたのだから、国は何らかの施策を行うだろうと。そう考えながらも、……生活は自分で切り開かなければならず、五人の子供のうち一人は病弱なため、外で働くことができず、自宅でせんべい焼きを始めたのです。ある年の新聞で、……母子会のあるのを知ったのです。……私の知人で復員された御子息が前途を悲観して自殺し……また国内あちらこちらに親子心中が相次いで……手を差し伸べたのが……当時全国未亡人団体協議会の山高しげり先生(元参院議員)でした」。これは函館市母子福祉会結成に奔走した初代副会長船曳たかの回想である(函館市母子寡婦福祉会『三〇年の歩み』)。
函館における戦争前後の独身女性に関する統計はないが、全国の統計については「戦争中に青春時代を送った四〇〜五四歳の年代の未婚者の率が男性に比べ一・九パーセント高く、中高年の独身婦人の問題は戦争被害の問題である」と書かれていることを記憶に留めたい(日本婦人団体連合会『婦人白書』創刊号)。(酒井嘉子) |
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