通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム5

働く女性の増加
さまざまな分野への進出

コラム5

働く女性の増加  さまざまな分野への進出   P622−P626

 平成10(1998)年3月、男女共同参画社会を目指した女性の行動計画『はこだてプラン21』が策定された。函館市は2年前の平成8年に、このプランに先立って、市民の意識調査を実施した(『男女共同参画社会に向けた市民意識調査報告書』)。男は仕事・女は家庭という男女の役割分担意識については男58.5パーセント、女42.0パーセント、全体で48.5パーセントと分担に賛成する意識は根強く、総理府(平成7年「男女共同参画に関する意識調査」)や北海道(平成4年「女性に関する意識調査」)の調査より高い割合を示していた。戦後50年を振り返るとき、男女の役割分業観が今なお根強いにもかかわらず、函館の女性は各産業において就業の一翼、それもかなりの部分を担っていることがわかる(表参照)。
各産業に女性就業者が占める割合
                                                                     単位:%
年次 農業 林業
狩猟業
漁業水産
養殖業
鉱業 建設業 製造業 電気ガス
水道業
運輸通信等
公益事業
卸売小売業
・飲食店
金融保険
・不動産業
サービス業 公務 分類不能
の産業
昭和25
昭和30
昭和35
昭和40
昭和45
昭和50
昭和55
昭和60
平成2
平成7
48.7
49.8
51.4
53.5
51.5
47.3
45.5
43.6
44.3
45.2
11.4
19.5
18.3
20.1
15.3
14.4
14.9
13.4
16.4
14.5
3.7
13.8
12.6
19.2
17.6
15.8
15.3
15.8
19.1
26.4
10.0
11.2
15.4
27.2
16.8
15.9
14.0
14.0
25.4
20.3
3.2
8.3
18.2
17.9
12.5
12.1
12.9
11.9
14.1
14.4
23.8
30.9
31.3
37.4
37.9
32.5
34.8
39.8
42.8
46.0


7.6
9.4
13.4
14.0
16.6
14.2
15.0
15.8
8.6
8.8
8.7
9.2
9.2
8.7
8.3
8.2
10.7
12.5
37.6
39.8
42.8
48.2
48.8
46.9
48.2
49.1
51.1
51.7
33.9
32.3
37.4
45.9
48.5
49.2
50.5
51.1
53.9
54.2
49.0
52.0
52.9
54.6
53.8
52.1
52.0
52.5
53.8
54.1
15.6
14.7
12.2
12.2
18.8
19.9
21.5
22.2
18.8
22.0
21.7
0.0
61.1
50.0
35.2
57.0
22.7
39.6
44.3
37.9
「国勢調査」の産業(大分類)および男女別15歳以上就業者数より作成


田起こしをする女性(昭和42年、俵谷次男撮影)

水産加工場で働く女性(昭和41年、俵谷次男撮影)
 とくに農業は昭和35、40、45年度では過半数を占め、サービス業では昭和30年から女性の方が多く就業している。製造業では昭和25(1950)年の23.8パーセントが平成7(1995)年には46.0パーセントとなってほぼ倍増し、卸売小売業・飲食店と金融保険・不動産業も、平成2、7年には就業者のほぼ半分以上を女性が占めている。女性の就業を無視しては函館の産業は成立しえないほどまでに女性就業者の比重は大きくなっている。
 「国勢調査」や「函館市事業所統計」から表に掲げた分類をさらに詳しくみると、「製造業」では戦後一貫して食料品製造業がもっとも従業者が多く、かつ女が多く働いている職場である。「卸売小売業・飲食店」では卸売は男が、小売は男女半々、飲食店では女が多く働いている。「金融保険・不動産業」では、銀行と信託業の従業者がもっとも多かったが、昭和41年以降は保険業従業者が1位を占め、男の多い職場だった生命保険会社外勤社員に女が進出し(昭和23年4月24日付け「道新」)、女性の比重が非常に大きくなっている。「サービス業」では昭和26年は教育・対個人サービス(洗濯、理美容など)・医療保健業の順に多かったのが、41年には対個人サービス業・医療保健業の順となり、44年以降は医療保健業が1位、対個人サービス業が2位となる。共に男より女の従業者が多い分野であり、看護婦・美容師・旅館従業者として働く女性の活躍がうかがえる。
 このような女性従業者の増大は、すでに戦時中から労働力不足を補うために女性が各産業に進出・従事していたことに加え、敗戦後の政治・社会上の変革で女性の権利・地位が向上したことも関係するといえよう(第6編第1章第2節参照)。
 戦後の新聞には「働く婦人」の話題が数多く紹介されているので、以下にそのいくつかを記してみよう。
 敗戦直後の様子として、函館にアメリカ占領軍が上陸して間もなく、「進駐軍水専宿舎食堂」の「接待女子」20人の募集に130人の「娘子群」が押し寄せたことが報じられている(昭和20年10月16日付け「道新」)。また「馘首絶対反対、函館駅女子従業員運動開始」と報道された記事からは、出征した男性に代わって戦時中から国鉄函館駅に働いていた300人近い女性従業員の存在がわかるし(同21年2月8日付け「道新」)、函館ドックでも婦人部(組合員250人余)が仕事のあと洋裁教室を開いたとある(同22年4月16日付け「道新」)。
 昭和22(1947)年9月、女性労働者に対する保護規定を盛りこんで労働基準法が施行されたが、その約2年後には、「働く婦人、労働条件は改善されたか」の新聞報道がある(昭和24年7月31日付け「道新」)。
 この記事によると、電話交換手として働く女性は電話局と官公庁・会社の私設とを併せて440人がいたことがわかる。昭和23年公布の法律で専門的職業として資格が必要になった看護婦だが、その有資格実働者は約350人で、一部小病院や個人病院では看護婦がなお「女中代わりに」家事にまで使用されている実態があったという。また女性教員は労働基準法の施行にともなって給料は男性と原則同一となり、小学校教員は男より22人多い328人、中学校は男の半分以下の115人、高校は17人で、合計460人であった。
 「製菓女工」では「M製菓」従業員175人のうち「女工」は半数で、基本給は男女同一、平均5000円の月収で職長・副長などの地位にも登用されている。そのほかにゴム工場、製網工場などにも「女子勤労者」が必要とされ、就労条件は改善されていると報じられている。
 戦後一貫して函館の製造業のなかでもっとも従業者が多い食料品製造業については、昭和25年に(前年11月飴類の統制が解除されている)、″活気を取り戻した函館菓子工業界、「魚」に代わる花形産業″と紹介された。キャラメル・ビスケット・羊羹・カステラ・キビ団子作りなどに多数の女性が働いていた職場である。敗戦直後270人程度だった有力5工場の従業員数も、昭和25年には明治250、道産200、国産70、佐藤食品140、帝国160で計820人に激増していた(昭和25年7月20日付け「道新」)。
 製菓業の好調は朝7時から夜9時まで2交替労働制と昼夜兼行のフル操業とに支えられていた(昭和27年8月31日付け「道新」)。この年秋には「キャラメルに泣く女工たち」の見出しで、道産製菓での従業員組合の労働争議が報じられ、臨時工を含めた約290人の女性工員の低賃金、時間外および休日労働の内情が伝えられたが、製菓業界躍進の陰に女性工員たちの「忍従と犠牲」があったといえよう(昭和27年10月28日・30日付け「道新」)。
 戦後女性が新たに進出した職業分野としては、「婦人参政権」(公民権)の行使にともなう議員誕生がある。昭和22年4月30日の函館市議会議員選挙に4人の女性が立候補し、新聞記者の川崎ヤエが最初の女性議員として選出された(酒井嘉子「女性が初めて参政権を行使した頃の函館」『道南女性史研究』第11号)。
 翌5月には、全国に先駆けて函館税関が「婦人検査官」5人を採用した(大正期に神戸税関で一時期採用あり)。検査官の仕事は中国大陸やサハリン(樺太)などからの引揚者その他の所持品の検査で、「女性の検査は女性が行うべき」の声に応じたものだった(昭和22年5月13日・16日付け「道新」)。
 この時採用された女性5人のうちから、村山貞子と大柴栄子の2人はその後初の女性係長に起用された(昭和25年9月2日付け「道新」)。
 昭和22年12月には、北海道初の「婦人警察官」が函館署に9人、水上署に2人配属されて、「可憐なお巡りさんは……駅前交差点で手さばきも鮮やかな交通整理ぶりを示した」(昭和25年12月21日付け「道新」)。
 新しい職域に挑戦した女性は、戦後の男女同権時代のはじまりを示していた。(酒井嘉子)

製菓工場の女性工員

当選した川崎ヤエ(昭和22年5月2日付け「道新」)
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