通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム18 北洋博覧会の開催 |
コラム18 北洋博覧会の開催 「北洋の基地」から「観光都市」へ P688-P692
この博覧会は、昭和27年の北洋漁業再開を記念し、商工会議所をはじめとする経済界の人びとが、当時沈滞ムードにあった函館を活性化しようと計画したものであった(「座談会・昭和二九年の″北洋博″を語る」『地域史研究はこだて』第7号)。 第1会場の函館公園に27施設、第2会場の五稜郭公園に11施設と、あわせて38の施設が設けられた(表参照)。入場料は、第1・第2会場共通当日券は中学生以上の大人が150円、小人が80円。第2会場のみの当日券は大人50円、小人20円。また、前売り券には懸賞が付いていて特賞の「北洋博賞」は現金100万円であった。前売り入場券にこれ程の懸賞金を付けた背景には、最低で44万人から45万人、目標は60万人の入場者を確保したかったからと思われる。 北洋博を開催するにあたってはさまざまな宣伝活動がおこなわれた。この宣伝活動はまた函館の観光PRでもあった。新聞・週刊誌などへの広告掲載、パンフレット・ポスター・カレンダー・マッチラベル・ステッカーの作製、テーマソング「北洋音頭」のレコード作製、ラジオ放送による宣伝などあらゆる手段を使って全国に宣伝した(『北洋博写真集』)。このことはとりもなおさずその後の函館の観光PR活動の基礎にもなっている。
また、観光遊覧飛行がおこなわれたのは、博覧会の副産物といえよう。コースは市内−五稜郭−湯川コース、当別トラピストコース、大沼−駒ヶ岳コースが設定されていた。ラジオ店では道内各都市のトップを切って「テレビ受像機」を店頭に置きその宣伝をおこなったりもした(昭和29年7月2日付け「道新」)。
ちなみに函館市では昭和25年から函館山の観光道路の工事に着手し、27年には観光ポスターを作成し異国情緒や函館山からの景色を宣伝している(コラム17・50参照)。しかし、観光地としての整備はまだまだ不十分な状況であり(昭和27年7月20日付け「道新」)、北洋博は環境整備の契機ともなった。 戦後、全国的に博覧会ブームといわれるなかで、北洋博は「内容、規模ともにまさしく日本一の呼び声をかちえ」たと評された(昭和29年12月30日付け「道新」)。当時の事務局担当者も「赤字は出さなかったし大成功でした」と語っている(前掲「座談会・昭和二九年の″北洋博″を語る」)。 博覧会のスケールを暗示するという全国物産館への出品状況をみると、鳥取・島根・山口・滋賀県以外の都道府県が参加した(昭和29年7月10日付け「道新」)。富山と新潟は北洋漁業再開記念でやはり博覧会を開いており、友情出演として出品、日魯漁業(株)なども非常に協力的だったという(前掲「座談会・昭和二九年の″北洋博″を語る」)。経済効果では、宿泊・飲食・交通費など全体で動く金は約10億円と見積もられ(昭和29年6月21日付け「道新」)、道路や各施設の整備によって函館市には1億円の財産ができたともいわれた(同29年9月3日付け「道新」)。 その一方で北洋漁業に目を向けると、昭和31年までは漁獲量を飛躍的に伸ばしたが、その年以降、ソ連との交渉によって漁獲高が割り当てられるようになり、52年には200海里水域が設定されると衰退の一途をたどった(第6編第2章第3節参照)。 北洋漁業再開を記念した北洋博ではあったが、函館市はこの時に「観光」に深く足を踏み入れていたのかもしれない。先細りする北洋漁業を後目にかけ、観光産業は高度経済成長を経て伸び続け、平成3(1991)年度には函館を訪れる観光客も500万人をこえ(『新函館市観光基本計画』)、函館市の基幹産業となっている。 現在、函館公園には子供の国で使われた飛行塔が、五稜郭公園には観光館・お菓子デパートだった市立函館博物館分館が、北洋博の記憶をかすかにとどめている。(保科智治) |
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