通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第1章 敗戦後の状況 コラム17 函館山と観光 |
コラム17 函館山と観光 ″新日本百景″で全国第1位 P682−P686
かつて、函館山は要塞地帯法によって一般人の入山は一切禁止され、市民が撮影、写生をすることさえ厳しく禁じられていた。ところが敗戦後、軍事的な必要性がなくなった函館山は、早速その地理的好条件を利用して観光開発を意図した函館市と商工団体によって、山を所管する大蔵省へ払い下げの陳情がおこなわれた(昭和21年3月23日付け「道新」)。それ以前すでに、燃料不足の影響を受けて山の樹木が盗伐の被害にあったりしていたため、管理者の大蔵省函館管財支所では、入山者には許可証を発行する案も検討されていた。 しかし、新聞報道によれば、戦後は開放とまではいかないが軍の監視を放れ、草摘みや薪木拾い程度ならば黙認されていた。毎日相当数の人びとが出入りしている状態であるが、軍の施設であった関係上弾薬その他の危険物も落ちているため、事故防止の意味もあって市民に対しては全山の整理が終了するまで入山しないこと、子どもたちが山に落ちているものに触れないようとくに注意を促しているとあり(昭和21年4月20日付け「道新」)、このあたりが当時の実態に近いのではないかと推察される。 昭和21(1946)年10月17日、いよいよ函館山の一時使用が大蔵省から許可になったので、一般市民にも広く開放することになった。函館市は12月に入ってから函館山管理事務所を設置して景勝保護、盗木防止、防火など入山・退山者の監視、取締りにあたることとした。そのため、山とその周辺の風致を保持し、施設の計画・維持管理ならびに開発を図る目的に沿った函館山保勝委員会を設けて委員、顧問を委嘱した(昭和21年『函館市事務報告書』)。 函館市では、将来は函館山を「国際的観光地」にしようと街の再建・復興を願ってさまざまなプランをたてていたが、その第1歩として、それまでの軍用道路を改良して頂上までのドライブウェーを作ることにした。勾配、道幅とも自動車での登山を容易にするように設計された全長3.8キロメートルの観光道路の着工にこぎつけたのは、昭和25年のことであった。しかし、市の財政難のため国庫補助を受けての工事であった(コラム50参照)。 冬期間も工事は続けられたが難行して進まず、頂上までの舗装完成を待たずに28年5月には市の交通局が毎日曜・祭日に登山バスを運行させることになった(昭和28年5月16日付け「道新」)。その後は、市営の定期観光バスが運行し、昼間だけではなく夜景を目当ての観光客のために、夏場には夜間にもバスを運行させた。 さらに、全道の他都市にさきがけて昭和27年、第1回の観光ポスターを作成し、全国の主要な駅や都市に配付して観光客の誘致を図った(『地域史研究はこだて』第32号表紙参照)。 また同年、山頂(御殿山)にある砲台跡を利用し、総ガラス張りの喫茶室を備えた円形の3階建て展望台を設置することが計画され、翌年から工事にかかった。当初の計画とは若干異なるが、市街地側に幅4.4メートル、長さ30メートルのバルコニーを突き出した建物が5月17日に竣工した。
一方、市街地と近接している函館山は、市民にとっても四季折々の変化を楽しむことのできる絶好の自然に恵まれた場所でもあった。青函連絡船洞爺丸の沈没という大事件のあった1か月後には、″函館山市民ハイキング大会″が教育委員会の主催でおこなわれた。 この日、10月24日の日曜日は晴天に恵まれ、抽選により1等賞携帯ラジオ以下5等までの賞品が当たるというイベントもあったせいか、正午現在には約4500人もの登山者があった(昭和29年10月25日付け「函新」)。 何はともあれ、函館にとって画期的だったのは昭和32年11月、『週刊読売』の主催で全国投票によっておこなわれた″新日本百景″で函館山が第1位に選ばれたことであった。これを契機として観光開発にも一層弾みがつき、莫大な費用がかかるため計画倒れになっていた山頂へのケーブルカー問題も急速に具体化してきた。 結局、財源難から市営は断念され、翌33年、市内の政財界のメンバーで構成・出資する函館観光事業株式会社が設立された。5月にはロープウェー架設工事に着手し、31人乗りのゴンドラを取り付け、11月15日に営業開始にこぎつけた(函館山ロープウェイ株式会社『函館山ロープウェイ三十年の歩み』)。山腹に軌道を敷くケーブルカーよりも空中ケーブル方式のロープウェーの方が自然破壊が少ないという配慮もあってのことであろう。 昭和63(1988)年には函館市も出資した第3セクター方式により、当時日本最大となる125人乗りのゴンドラが姿を現した。また山頂駅の展望台も改築・新築を重ね、一方で観光バスとの共存も図ってきた。このロープウェーは、今では、函館山への輸送人員数が函館の観光客入り込み数を推定するほど重要な施設のひとつとされている。(渡辺道子)
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