通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第1章 敗戦後の状況 コラム16 開港記念日と港まつり |
コラム16 開港記念日と港まつり その歴史と移り変わり P677−P681 昭和9(1934)年3月21日、春まだ浅い函館は吹き荒れる強風のもとで未曽有の大火に襲われた。市街のほぼ3分の1を焼き尽くし、翌朝には降雪にも見舞われたため、おびただしい死傷者のなかには焼死者に混じって凍死者も多くみられた。いうまでもなく、生き残った人びとも大きな痛手を蒙り呆然自失の状態で、復興へ向けての足取りは重かった。それから約1年を経て、日本全国ばかりか海外からも寄せられた膨大な義援金を基にして住宅や施設が供給されるなど、ひとまず、人心は落ち着きをとり戻したかにみえた。
ちなみに、『税関百年史』によれば、日米修好通商条約調印後函館港が貿易を伴って開港をしたのは安政6(1859)年6月2日であったものの、開港に付随した海関・外交事務を処理する運上所(現在の税関の前身)の建設が間に合わなかった。このため、仮事務所として使っていた港付近にあった高龍寺と山田寿兵衛宅で、その日を迎えたという。 一方、すでに明治36(1903)年におこなわれた函館開港50年祭は、日米和親条約による開港(安政元年3月3日)から数えていたという事実もあって(明治36年9月15日付け「北タイ」)、種々論議が重ねられた。一時は前例にならって安政元年説に決定する傾向にもあったが、結局、実質的な開港をとり、安政6年6月2日を新暦に直した7月1日に第1回開港記念祭をおこなう運びになった(昭和10年4月23日付け「函日」)。 とにかく、時日が迫っていることから、早速準備にとりかかり、坂本森一市長からの「港祭りメッセージ」が出された。 それを要約すると、(1)昭和10年は安政6年から数えてちょうど77年目にあたる「喜寿」の年でもあるので縁起が良く、函館市として盛大な祭典を挙行するのは時宜を得たものであること、(2)従来「函館人」には「人の和」に欠けるところがあって、函館が「大を成すに付き障害」となっていること、(3)前年の大火災に遭って意気消沈している市民の精神を鼓舞して前途に邁進する活力を付けることなどをあげて祭典の効用を述べている。また、大火後の復興も遅々として進まない現状で「お祭り騒ぎ」に反対する意見もあるが、市長は、それは消極論であって進取の精神に反し、時代に落伍する恐れを多分に持つものであるとの見解を示した(昭和10年6月29日付け「函毎」)。
港まつりが近づくと、帝国電力会社では3000円余りを投じた花電車3台を昼夜にわたって走らせ、自動車協会函館支部では3日間にわたりトラック20台、乗用車10台、乗り合い自動車4台を飾りたてて花自動車隊を編成して市内を行進した。もちろん、各町会でもそれぞれ趣向を凝らした山車(だし)を作り、港まつり期間中は提灯行列や港踊りに多数参加し、花火大会を楽しみ、市街は大いに賑わった。昭和10年の『函館市事務報告書』には、「三日間ノ人出総数三十万人、外来者七万人ト称セラレ、函館開港以来ノ殷賑ヲ現出シ」と記載されている。 このように大成功をおさめた開港記念日・港まつりは第1回以来、函館の夏を彩る年中行事になっていったが、昭和18年のこと、折りからの「対米英決戦下においては誠に不名誉極まる行事である」として取り止めになってしまった(昭和18年6月17日付け「道新」)。 しかし、幸いにも3年間中断しただけで戦後いちはやく再開し、昭和21年7月1日は開港から88年目の「米寿」に当たる港まつりを盛大に祝うと共に、市民も久しぶりの平和の復活を満喫することができたのである。 昭和35年には、第1回1万人踊りパレードが始まって中心街を練り歩き、同47年から日中の踊りは夜間に実施するようになった。 また、市民有志のグループが考案した「いか踊り」が昭和56年から加わった。「いか踊り実行委員会」を結成した人たちは、それぞれ職業を異にしながらも、港まつりが始まるひと月前から事務所を借り受け、山車制作その他の準備をする。当初、25人ほどで始まったものではあるが、のちには東京でテーマ曲のレコーディングをするまでになった。ボリュームをいっぱいにあげた音響車に率いられて、簡単な振り付けの踊りということもあって、観光客や市民の飛び入りもあり、年々参加者が多くなっていった。 なお、例年港まつり期間中は天候不順に悩まされるため、41年以来、すべての行事が8月に移行された。依然として、開港記念日だけは7月1日におこなわれてきたが、平成元(1989)年に式典を取り止め、この年以降は8月1日に開催する港まつりの開会式として祝うことになったのである。 (渡辺道子)
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