通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム15

市民の足、自転車
北海道初の自転車登録制度

コラム15

市民の足、自転車  北海道初の自転車登録制度   P672−P676

 戦前、自転車は庶民の重要な足として活躍していた。明治末期にイギリスから輸入された「ラーヂ号」がやがて国産化され、昭和初期には「富士覇王号」と名前を変えて発売、戦後まで続くロングセラー自転車となっていた(講談社『日録二〇世紀 一九三五年』)。 
 戦後の復興期、日本は燃料・資材など物資の極端な不足から交通機関は満足に機能せず、ましてやマイカーなどない時代であるから自転車は相変わらず庶民の重宝な足とされた。東京では昭和22(1947)年に自転車の後に幌付の人力車をつけた人力タクシー「輪タク」が出現して人気を呼び、昭和24年には東京で4000台、全国では1万3000台を数えている(同前)。
 昭和24年、東京でビヤホールが再開され大いに賑わったが、おもしろいことに店内のテーブル横には自転車がズラリと並んでいる。盗まれる恐れがあったためという(同前)。
 復興期の函館でも市民の足である市電が物資不足の煽りを受け思うように運転されず、自転車が市民の足として活躍していた。自転車に乗車台を取り付けての2人乗りは交通規則に違反しないだろうかといった質問が新聞の紙上相談室に載ったりしていた(昭和21年11月15日付け「道新」)。
 昭和23年頃から函館でも自転車の盗難が激増している。1月から8月まで函館市警へ出された盗難届は自転車が438台、リヤカー44台、荷車6台で、検挙された犯人は96名、所有者へ戻ったのは自転車47台、リヤカー4台だけで437台はヤミからヤミへと売買されたという(昭和23年8月20日付け「道新」)。
 自転車がよく盗まれる場所は市役所内がいちばん多く、裁判所、税務署の順で、おそらく官公庁には駐輪数も多くそれだけ盗みやすい場所だったのだろう(昭和25年2月19日付け「道新」)。時間は昼間が多く、他のコソ泥と違い大胆に真っ昼間に盗む自転車泥棒が多かった。自転車ばかり9回盗んで捕まった自転車泥棒は、1台3000円で売り飛ばしていたそうで、自転車専門に約11万円相当の盗みをしていた(同24年1月15日付け「道新」)。当時、自転車の新品は約1万6000円なので5分の1程度の値段で売り飛ばし儲けていたのだろう(同28年6月5日付け「道新」)。


鶴岡市場の前に並ぶ自動車(昭和29年、「道新旧蔵写真」)
 
敗戦直後の市内で荷車をひく人
自転車登録条例についての記事(昭和24年2月11日付け「函新」)
 この急増する自転車盗難を防止し所有者を安全に守りたいという理由で考えだされたのが「函館市自転車登録条例」である(昭和24年1月19日付け「道新」)。
 この自転車登録条例は昭和24年2月10日に公布され、同日から施行された(『函館市公報』第39号)。この条例は自転車およびリヤカーの所有権を明確にして盗難を防止することを目的とし、函館市内で自転車を所有または使用する者は必ず登録しなければならなかった。登録証や番号のない自転車の販売、譲渡、交換は警察署長の許可を得なければならず違反者は拘留、または罰金が科せられ、現在のマイカー並みの扱いであった(同前)。
 登録は同年2月10日から警察署で各町会別に始まり、自転車のオシリに番号札を付ける作業が実施された(昭和24年2月10日付け「道新」)。「フキツケ料に三十円、また鑑札をとつていない車は登録できません」といわれ係員に390円の税金を収める人も多かったそうである(同24年2月11日付け「函新」)。26日まで函館市内で1万5000台が登録を受け、この期間に出された盗難届は登録完了車が2台、未登録車が8台という好成績となった(同24年2月27日付け「道新」)。
 それまでの最高だった昭和12年の自転車台数1万2000台をこえ、鑑札交付で課税した税金収入も78万円に達した(昭和24年2月22日付け「道新」)。
無軌道諸車の台数
               単位:台
年次
自転車
馬車
荷車
リヤカー
昭和25
26
30
16675
18626
29071
585
589
605
299
107
91
4,225
4,339
4,866
各年『函館市勢要覧』より作成
 昭和24年末までに自転車1万6797台、リヤカー5041台が登録を受け、同年の盗難数は昭和22年と比較して約半分となり、また所有者に戻った自転車も22年の1.5パーセントから29パーセントとなるなど条例の成果がでた結果となった(昭和25年2月19日付け「道新」)。その後の各車台数の推移は下表のとおりである。
 昭和25年6月、盗難が多い場所といわれた市役所前に自転車置場「自転車一時預り所」が開店した。この店は自転車盗難防止と市役所玄関前の美化、そして婦人団体も自ら働くことで社会事業奉仕し、また未亡人の家庭内職を兼ねて函館西川婦人連盟が始めたものである(昭和25年6月2日付け「道新」)。1台わずか5円という低価格と親切、サービスが売り物だった。
 「函館市自転車登録条例」は昭和31年に廃止されたが、昭和33年9月1日からは全道的に自転車の登録が実施された(昭和33年8月28日付け「道新」)。30年代に入り盗難自転車や拾得自転車が増加してきたのである。駅前や大門などの繁華街に放置される自転車が多くなったという(同33年10月8日付け「道新」)。市民にもゆとりが出てきたことが象徴される出来事といえるだろう。
 自転車の交通違反も目立ってきた(昭和34年11月10日付け「道新」)。昭和20年代の自転車盗難防止策が過去のものとなり、現代の使い捨て時代が30年代から始まったことがうかがわれる。
 そして、市民の足としての役割も徐々に自家用車へと移行していったのである。
 現在、函館市内の繁華街や駅前だけでなく、住宅地のほか川原や空き地、公園にも捨てられた自転車が目立つ。平気で人の自転車を盗み乗り回し、あげくに放置する人が多くなったためといわれる。一家に1台の貴重な足であった自転車は、今では1人に1台の気軽な足となっている。(尾崎渉)

車道には車がなく、自転車が「足」だった

仕事にも自転車は欠かせなかった(昭和35年、「道新旧蔵写真」)
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