通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム14

海上ホテル「景福」
函館での多彩な一生

コラム14

海上ホテル「景福」  函館での多彩な一生   P667−P671

 敗戦間際の昭和20(1945)年7月、青函連絡船はアメリカ軍による空襲で壊滅的な打撃を受けたため(『函館市史』通説編第3巻参照)、軍艦やほかの航路からの応援で急場を凌いでいた。敗戦後は船舶や燃料の不足に復員者や引揚者、中国・朝鮮人の帰国者、占領軍、食糧を求めて買出しに出る人びとの輸送も加わって混乱はいっそう深まっていった。
 現在こそ、他の輸送手段の発達で輸送ルートとしての位置づけは変化したが、当時は連絡船が本州と北海道をつなぐ大動脈であったため、運航の確保は急務となっていた。
 このようななか景福丸(3628トン)もピンチヒッターとして昭和20年8月20日から青函連絡船として就航することになる(青函船舶鉄道管理局『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。
 景福丸は大正10(1921)年に竣工、船名は朝鮮の王宮「景福宮」から命名されたもので、翌年のにギリス皇太子が来日した際には、瀬戸内海遊覧のお召船として大役を果たした。その後、下関と韓国の釜山を結ぶ航路に就航、「玄海の女王」として活躍していたが、敗戦により関釜航路が閉鎖されたため青函航路へ配置されることとなった(大正11年5月5日付け「函新」、昭和33年9月5日付け「道新」)。
 戦禍を免れ、戦時下の過酷な使用にも耐えた同船は、戦後の混乱期には青函連絡船として、悪条件のなか一度の航海で定員の約2倍、2000人もの人びとを運んだが(昭和20年9月11日付け「道新」)、建造時の豪華客船も就航当初から破損が著しく、故障のため青森まで10時間以上かかったこともあったという(景福丸乗組員談)。
 このため昭和22年から23年にかけて続々と新造船が出そろうと、翌24年7月30日に終航、函館桟橋南側岸壁に係留されることになった。青函連絡船としては3年11か月の短い就航であった(青函船舶鉄道管理局『青函連絡船五十年史』)。

海上ホテルとして係留された景福丸(昭和30年、金丸大作撮影)

広告(1954年版『函館商工名鑑』より)
 景福丸が航海を終えたこの頃は戦争の影響も色濃く、国鉄としても空襲で連絡船と運命を共にした乗船員の遺族や人員整理による大量の解雇者の救済が大きな問題となっていた。そうしたなかで、これらの人びとの働く場所を確保し、旅行者へのサービスの向上をはかるために、海上ホテルとして船体を活用する案が浮上した。この計画については、持ち込まれた市の方でも「国鉄市議」と「旅館市議」に分かれ、利害をめぐって激しい議論が交わされたが(昭和24年6月2日付け「函新」)、昭和25年1月25日に開店披露式がおこなわれ(正式に許可されたのは同年6月30日)、函館の港を彩る新名物、日本で唯一のユニークな海上ホテルが誕生することとなった(昭和25年1月26日・7月2日付け「道新」)。
 ホテルとはいっても福祉事業的な性格が強く、売店や船内食堂などを請け負っていた鉄道弘済会が船を借り受けての営業であった(『鉄道弘済会北海道支部史』)。
 デッキからみる夜景や函館山の景色は美しく、当時の新聞には開店当初、戦災未亡人やその子弟が女中やボーイとして働く慣れない仕事ぶりとともに、宿泊客の「何だか函館に居るような気がしないで、アメリカへでも行っているような気がしてとても愉快ですよ」との感想が報じられている(昭和25年1月28日付け「函新」)。
 その後、設備の不備による食堂以外の一時休業や海底への土砂の堆積により船体が傾斜するなど海上ホテルならではのトラブルもあったが、桟橋待合室との間にオーバーブリッジが掛けられたり、3等雑居室を団体客向けに模様替えするなど次第にサービスの向上もはかられていった(昭和25年5月20日付け「函新」、同25年5月30日・同29年6月30日付け「道新」)。


ポスター(昭和25年、栗谷川悠蔵)


駅前桟橋付近

左舷デッキから函館山を望む(昭和30年、金丸大作撮影)
 また、敗戦後の桟橋から駅前にかけては港内に漁船、艀等が雑然と係留され、付近にはバラックが建ち並んでいたが、昭和29年の北洋博開催前後には観光都市函館の玄関口として美観・土地利用の両観点から付近のバラックが撤去、桟橋横の約7900平方メートル(現在は朝市の一部と駐車場敷地)が埋め立てられるなど周辺の整備もすすめられていった(市港湾部資料、昭和29年5月28日付け「道新」)。
 船内には客室のほか、食堂などが設けられ、『北洋博と観光函館』によると、客室は和室5室、洋室14室、収容人員は一般客46人、団体客280人の計326人で、一般宿泊料が950円となっている。
 駅や桟橋から近いことやもの珍しさもあって多くの連絡船や鉄道の待合い客、見送りや出迎えの人、修学旅行生、観光客に利用され、食堂ではクリスマスパーティーや送別会などの各種宴会も催されて市民にも親しまれた。
 しかし、もともとが老朽船であったために維持費が経営を圧迫、昭和29年度の収支決算では収入1400万円に対し支出2100万円と700万円もの赤字を抱える状態であったため(昭和30年10月12日付け「道新」)、昭和31年末にはついに休業に追い込まれた。

駅前の景福ホテル(昭和35年)
 その後は船体の処置をめぐって、しばらくそのまま係留されていたが、結局船としての活用方法もないままスクラップとして売却されることになり、昭和33年にその生涯を閉じた(古川達郎『鉄道連絡船一〇〇年の航跡』)。函館での活躍は短い期間であったが、連絡船・ホテルとして函館の復興を支える多彩な一生であった。
 この事業は昭和31年、新たに函館駅前に建設された景福ホテルに受け継がれ(『鉄道弘済会北海道支部史』)、現在は函館ハーバービューホテル内におみやげ物店「けいふく」としてわずかにその名前を止めている。(奥野進)
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