通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム13

金ヘンブームのひとこま
朝鮮戦争下の函館

コラム13

金ヘンブームのひとこま  朝鮮戦争下の函館   P662−P666

 昭和25(1950)年6月に勃発した朝鮮戦争は、経済的苦境にあった日本経済にとって文字通り天佑となった。他国での戦争をステップにして経済の復興と発展を図る、戦後50年の経済構造の一端が組みたてられた。
 朝鮮戦争に、「国連軍」として参戦した在日占領アメリカ軍が、武器弾薬や軍用サービスを日本で調達したため、「特需」と呼ばれる戦時需要が発生し、軍需関連産業の金属・機械・繊維工業中心の好景気が、いわゆる「金偏・糸偏」の字がつく産業にもたらされたことから、「金へん・糸へん景気」と呼ばれた。
 鋼材・銅など金属・鉄鋼産業の原材料は不足していたから、その代用に古物の金属製品や廃物が蒐集され、それらを「金ヘン」と呼んで売買された。
 「荒される神社の金ヘン 銅板屋根ごつそり 燈ろうも丸はだかに」、と報道された市内の神社・仏閣の金属装具盗難のニュースは、「金へん景気の波」にのって銅、真鍮などを狙う「金属ドロ」の横行を伝えたものだが(昭和26年3月4日付け「道新」)、「金ヘン」は、手っ取り早い現金収入をもたらしたから、悲喜こもごものことを生みだした。

七重浜での屑鉄拾い(昭和26年3月27日付け「道新」)
 第2次世界大戦下の強制的な供出だった「金属回収」とは違って、「金ヘン」は実生活に直結する現金収入をもたらしたから、経済復興の過中で喘いでいた市民にとっては、干天の慈雨のようなものであった。それだけに、古釘、古電線、古ボルトなどの金属古物の回収・蒐集が一つのブームとなった。
 その象徴的な光景は、七重浜の旧日進造船所跡地に屑鉄拾いの人が押し掛ける様子が、「″海浜鉱脈″大賑い」、と写真入りで報道された。かつて「数千坪に渡つて棟を列べ」北洋漁業向けの漁船を建造・修理していた場所であっただけに、舟釘、ボルトなど「凡ゆる金ヘン」が散乱、砂地に埋もれていた。毎日数百人の屑鉄拾いが押し寄せ、ツルハシ、シャベルを持って早朝から繰り出す家族連れもあって、「テンヤワンヤ」の「金ヘンラッシュ」を呈していた。「海浜鉱脈」から掘りだした「金ヘン」は、出張取り引きの「クズ屋」が土つきの古釘類を1貫(3.75キログラム)当たり5円、ボルトや大舟釘を25円で買い集め、子どもでも1日に300円から400円の収入を得た者もいた(昭和26年3月27日付け「道新」)。
 「金ヘン」蒐集は何よりも現金収入の魅力にあったから、専門の泥棒だけではなく、小遣い銭欲しさの子どもたちにも魔力となった。学校からの帰路で道ばたや空き地などから古釘、古針金、古鉄板などを探し集めた子どもたちも多かったという(当時谷地頭中学校生徒談)。
 1貫当たり25円になる、と旧戸井線(『函館市史』銭亀沢編参照)の犬釘をツルハシを用いて抜き取る少年が現れたり、北海道大学水産学部の研究室からイカ乾燥の研究装置、「高周波装置の金ヘン物」をそっくり無断頂戴し、あめ玉に替えた「悪童」がいるなど、「金ヘン悲し」の様相も現れていた(昭和26年3月25日付け「函新」、昭和28年8月31日付け「道新」)。
 脚光を浴びたのは陸の「金ヘン」にとどまらなかった。鋼材、銅クズの需要増加から、函館近海に投棄されていた旧日本軍の銃火器・砲弾類、昭和20年の空襲(『函館市史』通説編第3巻参照)で函館湾や陸奥湾に沈没したまま放置されていた連絡船などの引揚げが本格化していった。箱館戦争の遺物「朝陽艦」の引揚げも、「時価三千万円と皮算用」された「金へんブーム」のなかでのことであった(昭和25年6月20日・8月17日・10月14日、同27年8月6日付け「道新」、同25年11月7日付け「函新」)。
 戦後5年、海運界もまだ戦前の水準に戻ってはいなかった。函館地区の船員失業者は1400人を数える深刻な状態にあって、朝鮮戦争の「特需」で賑わう関西以南に「特需外航船員・汽船乗組員」となって出稼ぎする者が出始めた。また地元就職も好転したとはいえ、この年末にはまだ1000人からの船員失業者がいたし、失業保険受給船員も396人いた(昭和25年10月15日、同26年5月4日・24日付け「道新」)。
 このような状態も、昭和26年には「特需が好影響」を与え解消に向かっていった。失業保険受給船員が4月には241人に減少し、5月の船員求人数も前年同期の約5倍半に増加していた。「船乗りさんに″わが世の春″」、と謳われ「船員不足」の懸念さえ生じた(昭和26年5月24日・6月23日付け「道新」)。
 こうした事情は、特需要員船員の大量募集と採用に加えて、雑穀統制の撤廃にともなう輸送に貨車がとられて、石炭、木材、コークス、雑貨などの輸送が滞り、さらに船積運賃の上昇もあって、今まで休船、繋船していた機帆船、汽船が運航したことによってもたらされた(昭和26年5月4日付け「道新」)。
 函館港入港の外航・内航商船も増加し(図参照)、港は徐々に活気を取り戻し始めた。積荷の筆頭が砂鉄であったり、海底の連絡船の引揚げ・解体作業も本格化し、寄港するアメリカ軍艦船とその将兵の上陸もあったというが、まさに「金ヘン・ラッシュ」の港と街になった。昭和26年度の個人事業者の多額所得者は「一、二位とも金へん」の「金物商」が占めていた(昭和26年3月1日、同27年8月6日・22日付け「道新」、当時CIE函館図書館勤務當作守男談)。

昭和30年の函館港

盗難により木製の文字が付けられた碧血碑(「道新旧蔵写真」)
 「上り坂の″金ヘン景気″」にまつわる金属泥棒は相変わらず横行していた。五稜郭公園の一の橋、二の橋の擬宝珠(ぎぼうじゅ、欄干の柱頭などにつける宝珠の飾り)や函館公園の排水溝の鉄蓋も盗難を恐れてはずされていたし、児童公園などのぶらんこのロープを鎖製にしたくてもできないでいた(昭和28年4月17日付け「道新」)。
 朝鮮戦争は昭和28(1953)年7月に休戦となるが、その後も「金ヘン泥棒」は横行した。谷地頭町の史跡「碧血碑」の青銅製の文字のうち、「血と碑」の二文字が碑周囲に張りめぐらしていた鉄柵・鎖と共に盗難に遭った。青函局管内の鉄道構内では、レール、ケーブル線、古鉄棒、レールボンド、ラジエーター、給水口、放水塔など金目の銅鉄製品や砲金類などが盗難に曝され、接岸中の青函連絡船渡島丸船内へ放水塔を盗みに侵入する者まで現れていた(昭和31年6月17日、同32年7月11日付け「道新」)。
 青函連絡船が、朝鮮戦線からの浮遊機雷に悩まされたのもこの頃で(第6編第2章第4節参照)、戦後日本の再軍備の発端となった警察予備隊(後に保安隊、自衛隊と改称)が創設され、約1000人の函館駐屯部隊が柏野競馬場に分駐したのは、朝鮮戦争のさなかであった(昭和25年10月18日付け「函新」)。(桜庭宏)

市内を行進する自衛隊(昭和32年、「道新旧蔵写真」)
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