通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦後の状況

コラム12

働く子どもたち
苦しい家計の一翼を担う

コラム12

働く子どもたち  苦しい家計の一翼を担う   P657−P661

 戦後も昭和20年代前半は経済的にもっとも貧しかった時代で、家事労働はもちろんのこと、家計を支えるために働く児童・生徒が多かった。母子家庭や引揚者の家庭はとくに苦労が多かった(コラム14参照)。昭和24年6月1日付け「北海道新聞」には「増えた″学費に困る児童″」として、各小学校ごとに実情が述べられているので地域ごとにまとめてみると、次のようであった。
○西部では8、9、10月のイカ釣り漁期に入ると、5、6年の上級生は約3割までが欠席、家計の手助けのため漁に出掛ける児童が多い。
○中心部商店街では最近の金詰りがそのまま反映して教科書が買えず、配給した7円のノートさえ引き取らぬ児童もあった。
○中央部では露天商の父兄が多いので内職をするために欠席する児童も少なくない。
○東部では最近スズラン売りに街頭へ進出し、家の収入の一部を助けている児童もでている。
 また中学校に通いながら働いて家計を助けている勤労少年は「昭和二十八年の函館市社会福祉協議会の調査によると約三〇〇名で、その八割までが新聞配達と納豆売り」に従事していた(昭和28年5月20日付け「道新」)。またその報酬として得る金額は「季節的なイカ干しで月額三千円ぐらいにもなるようだが、新聞配達では大体千円」であった(同前)。このほかに牛乳配達・ヤギの乳搾り、季節的なものとしてイカ釣り・イカのし・スズラン売り・ジャガイモ掘りなどがみられた。

大人にまじってスルメを作る子ども(「」道新旧蔵写真)
 この頃はスルメ加工がさかんで家庭の主婦をはじめ老人・子どもたちまで参加していた。とくに西部の小・中学生のなかには休日はもちろん、下校後も「イカ屋」にいってスルメ作りに従事するものが多かった。
 昭和26年当時の工賃は、イカサキが100尾さいて5円から7円、イカかけは100尾で3円、このほかスルメのばしが1枚5銭、これを10枚束ねて15銭といったところで、14、5歳の女の子でさえも1日100円ぐらいにはなった(昭和26年8月10日付け「道新」)。これらの収入は親に渡して家計の一助にするほか学用品やPTA会費、修学旅行の費用、運動用具の購入費などにあてられていた。
 教育委員会の「昭和二十八年度長欠児童・生徒調査」によると、病欠260名を除く長欠児童・生徒は610名の多きにのぼり、欠席の理由としては「家庭の無理解によるものが小学校六九名、中学校九三名」で、また「家族が病気で欠席したのは五六名(うち中学校四一)。教育費が出せないというのが六〇名(うち中学校五七)。家計の手助けのためという中学生が百人もいる」。本人によるものでは「勉強ぎらいというものが小学校の三〇名に対し中学校では一〇六名」に達している。
 一方、このうちで「学校を休んでどんな仕事をしていたか」についてみると「留守番・子守が一番多く、小学校で一一四名(うち八三名は女子)。中学校で二四八名(うち一八〇名が女子)の多数にのぼる」(昭和29年5月28日付け「道新」)。とくに女子中学生への負担が大きくなっている。
 このような長期欠席者の増加は、家庭の無理解もさることながら、戦後の生活困窮とそれに対する社会福祉制度の遅れによるものでもあったと考えられる。児童・生徒のなかには男子が大工見習いや工場の雑役に、女子は飲食店の給仕・女工見習いとして働いている者もあり、関係者にとっては頭の痛い問題であった。昭和29年度もこれとほぼ同じような長期欠席者がみられた。



函館市青少年保護育成運動事務局が設置された(昭和34年)
 また、当時の世相から長期欠席者のなかにはともすると非行に結びつくものもあり、このため教育委員会を中心に「長欠対策委員会」がつくられ、昭和33年にはこの組織が市内各小・中学校の補導委員会と連携して「補導連絡協議会」が設置された。34年には青少年の健全育成を図るため「函館市青少年保護育成運動事務局」が発足し、全市の町会単位では「青少年委員制度」がスタートした。
 昭和25年頃から、働く子どもたちに関してとくに大きく取り上げられたのは小・中学生の「イカ釣り就業問題」であった。これは戦後の窮迫した経済事情から生まれた特異なケースであって、例年イカ釣りの最盛期になると多くの子どもたちが参加し長期欠席者が増加した。「昭和二十二、三年頃には道南漁村の小学生で約四〇パーセント、中学生は六〇パーセントまでが就業したとみられ」、市内西部の中学校でも「昭和二十五年ごろには、全校の三〇パーセントがイカ釣りに就業、三年生の教室はクシの歯がぬけたようにマバラだった」という(昭和29年9月1日付け「道新」)。
 イカ釣りは夜間の激しい労働であり、これによって睡眠不足と疲労をまねき、さらに長期の欠席は学力の低下や欠席癖・金銭の浪費を誘発するなど教育上の問題点がでてきた(第6編第1章第5節参照)。その対策が学校や児童福祉関係者の間で真剣に取り上げられてきたのは昭和25年からであった。この年の9月に、市内西部の中学校ではイカつけ不良化防止の基本方針をつくり、関係機関との協議の結果、父兄・生徒の両方から誓約書をとり出漁許可証(期間を25日間とす)を与えて就業させていた(昭和25年9月4日付け「道新」)。
 しかし、その後イカ釣りが児童・生徒の学力低下と校内外の生活に悪影響を及ぼす点を考慮して出漁を禁止することとし、そのため貧困な家庭には生活扶助金を出すなどして、父母の理解と協力を得て11月1日から全市的にイカ釣りを禁止することにした。しかし児童・生徒の自発的出漁についてはこれを取り締まる法規がなく、禁をやぶって出漁するものもでてきた(昭和25年11月28日付け「道新」)。
 このような状況のなかで、昭和26(1951)年、労働省より児童生徒のイカ釣り就業は労働基準法に違反するとされ、昭和27年には児童福祉法の一部が改正されて満18歳未満の深夜業が禁止された。さらに学校教育法にも違反するとの見解が示されて、児童生徒のイカ釣り就業は法的にも規制されることになった。加えて市教育委員会や学校・福祉関係者の努力や親の認識の高まりなどから昭和28年以降は徐々に減少していった。
 「イカ釣り」とともに社会福祉の点からも教育指導上からも問題視されていたのが児童・生徒のスズラン売りであった。大門・駅前の繁華街では、スズランの季節になると市内東部や中央部の小・中学生2、30人が街頭に立って夕方から深夜までスズランを売っている姿がみられた。「これらの大半は自宅で採ってきたものを売るのではなく、湯川方面の卸元から一把五円で三十五把から四十把を買い求め十円で売っている状態。日曜は朝から、平日は午後七時頃から立ち始め、帰るのは決まって午後十一時すぎの終電車」であった(昭和29年5月25日付け「道新」)。
 しかしこれは明らかに児童福祉法に違反する行為なので、経済的に困る家庭への援助など方法を考えながらスズラン売りは禁止し、指導を強化していくこととなった。そのかいがあってか、昭和33年には「こどものスズラン売りの問題はどうやら一段落したようだ」と報道されている(昭和33年6月20日付け「道新」)。(青木誠治)

昭和28年1月16日付け「北海道新聞」の記事

大門付近で物売りをする子どもたち(「道新旧蔵写真」)
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第7編目次 | 前へ | 次へ