通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム1

樺太引揚者を迎えた港
日々の苦悩と地元の支援

コラム1

樺太引揚者を迎えた港  日々の苦悩と地元の支援   P602−P606

 「引揚者」、この言葉は、少し前までの函館では日常の会話で聞かれたものだ。それは函館が舞鶴、佐世保、宇品とならび引揚者の上陸地となって樺太引揚者を迎え入れ、そしてそのうち2万人ほどがそのままここに住み着いた歴史があるからだろう。
 昭和21(1946)年12月5日に樺太の真岡(現ホルムスク)から引揚者1927人を乗せた雲仙丸が函館港に入港した。米ソ間の協定による正式な引揚げの開始である。これをかわきりに昭和24年7月に一応の終結をみるまでに、函館は総数31万1877人の引揚者を迎えた(昭和24年10月1日付け「道新」)。敗戦時の樺太居住の邦人は総数約40万人といわれているので(若槻泰雄『戦後引揚げの記録』)、その大半が函館に上陸したということになる。
 第1船の入港を前に函館では引揚援護局や婦人団体など地域あげての受け入れ態勢が取られていた。第1次の引揚げは12月15日までにおこなわれ、引揚者総数5700人であったが、市民の援護動員人数は2500人を数え、引揚者2人に1人という割合であった。西浜埠頭の上陸所、海岸町援護寮、鶴岡町援護寮に多くの市民が張り付いて世話をした。
 引揚者の郷里への連絡用にと同胞援護会は便箋や鉛筆を支給したり、故郷のニュースを知らせる新聞、雑誌を用意した。また函館市農業会がトラックで馬鈴薯、大根などの野菜類をお年玉として市役所に持ち込むなどさまざまな寄付や支援の手が差し伸べられた。
 そのなかでも市内の14の高等学校生徒で構成された在外同胞救出学生同盟(以下、学生同盟)の活動にはめざましいものがあった。
 学生同盟は昭和21年4月に函館水産専門学校において、肉親を「異国の丘」に残してきた学生たちが参集して同盟組織を立ち上げたものであるが(函館引揚援護局局史係編『函館引揚援護局史』)、その後、道庁の主導で学生同盟は全道組織となり、本部は札幌に置かれ、函館を含めて道内の12都市に地区同盟が置かれた(昭和24年版『北海道年鑑』)。函館の動きが全道的な広がりへと転じていったわけである。

函館市農業会による野菜の差し入れ(「道新旧蔵写真」)

学生による引揚者援護活動(「道新旧蔵写真」)
 多くの援護団体が奉仕活動に力を注いだが、第3次の引揚げ(昭和22年)以降は学生同盟のみが活動した。彼らのひたむきな活動を賞賛する引揚者の声が新聞紙上でも紹介された。また援護局関係者も「晴荒寒暑昼夜を分たず、新日本の明日を背負う溌剌たる青年学徒がその純真なる精魂を傾倒して引揚同胞のために愛の奉仕を続けて居る。
 現場では労役者のする様な荷物の梱包、運搬、積込みから援護品の支給、持帰金の交換等の手伝、各種申告書の代筆、レントゲン室補助等々、夫々の持場に在って涙ぐましい程の活動をする」と絶賛している。学生同盟の出動延人員は3万人強にも及んだ(函館引揚援護局「引揚資料・雑集四」)。
 なお昭和21年12月10日付けの「函館新聞」は雲仙丸からの上陸引揚げを「きょう第一歩 雲仙丸の六百余名」と報道する一方で、市民の投書を掲載している。以下にその要約をのせておく。
 「戦後一年半苦しい抑留生活を経て同胞が樺太から引揚げてきた。援護局や学生同盟など関係機関はこの間、不眠不休で出迎え準備にあたってきた。こうした援護の思いやりが最後の引揚船まで続いてほしい。とかく日本人は物珍しさ中が華とばかりに初めは熱心であるが、毎日のようにそれが続くとしまいには、ああまたか、くらいに片づけられてしまう。彼らが求めているものは現実的な援助ではなく、彼らへの暖かい思いやり。裸一貫で帰還する彼らにとり私たちの『ご苦労さん』の一語が、彼らの再起力の最も大きな源泉となるべきことを銘記すべき。こうした思いやりの心を最後の一船まで持ち続けて函館市民の良い印象を与えてやりたいと思う」。
 受け入れ側の市民の率直な感想である。
 引揚者総数のうち函館定住者は2万人余であった(昭和25年版『北海道年鑑』)。これは戦後に函館の人口が増加した大きな要因となっている。引揚者は函館を経由して親類縁者などを頼りに帰郷したが、無縁故者とよばれて頼るべき縁者がいない人びともいた。
 第1次の引揚者で函館に定住したのは90世帯279人、それに無縁故者の7世帯35人が常盤寮や共愛荘に収容されている(昭和21年『函館市事務報告書』)。無縁故者は引揚者総数の約30パーセントを占めた。多くは樺太の気候風土と似ているという理由から北海道定住を望み、その結果、北海道の受け入れ比率は他県より圧倒的に高かった(樺太終戦史刊行会編『樺太終戦史』)。ちなみに昭和22年に函館が受け入れた無縁故者は1900人で道内では1位であった(昭和23年3月14日付け「道新」)。
 最初の引揚げから1年後の「函館新聞」(昭和22年11月30日付け)に2人の引揚者が紹介されている。
 中島町の共愛荘に住むI氏(61歳)は、明治39(1906)年に青森から樺太に渡り、真岡で漁業に従事後、敗戦の頃には役場勤め。函館に到着したが、郷里には頼る人もいなく無縁故者の1人として共愛荘に落ち着いた。当時の所持金は2800円。夫婦と子ども3人の暮らし。わずかな世帯道具とようやく手に入れた食料や燃料で厳冬の正月を迎えた。それからの1か月は生計を支える職もなく困窮のどん底が続き、一家死を覚悟したくらいであった。しかしようやく子どもたちの仕事がみつかり、自身も仕事にありつき、一家の生活は安定するようになった。
 もう1人は函館出身者で海岸町のK氏(55歳)。26年前に渡樺し、真岡で漁業を営み成功して一財産を築いたが、無一文で生地の海岸町に戻り、漁業を経営する弟宅に一家が同居した。その後土蔵を借りて、移り住み、弟のイカ釣り船に乗り、月に2万円の収入を得ている。一家で1万500円かかるというが、それなりの収入を得てうまくいっているほうだという。この記事からは当時の様子が克明に伝わってくる。
 函館に定住した引揚者にとって切実なことは住まいと(コラム9参照)、仕事の確保であった。収容人員の2.5倍もの入居者4500余人が「あふれんばかりにヒシめいて」いた港寮では、6畳間に9人家族が起居しているなど、文字どおりすし詰め状態であった(昭和23年12月22日付け「函新」)。
 昭和23年8月時点で引揚者世帯は約7300世帯(2万890人)、自宅のない寮生活は約700世帯(3300人)、間借り生活は約5600世帯と窮屈な生活に耐えなければならなかった(昭和23年8月1日付け「函新」)。これに対して市は国と道の補助を受けて引揚者住宅の建設に着手することにした。
 一方の仕事であるが昭和22年4月の就業者はわずか20パーセントであった。それが同年10月の国勢調査では90パーセント近くが何らかの仕事につき、一見、好転しているようにみえた(昭和23年5月16日付け「道新」)。しかしその実態はヤミ商売、カツギ屋、行商、露天商、日雇などと不安定なものが多く(コラム78参照)、生活扶助を受けているものも少なくなかった。
 こうした状況下に引揚者の共同経営となる鶴岡マーケットが開店し、活況に向かって歩み始めたことは特筆されてよいだろう。(菅原繁昭)

働く樺太引揚者の女性たち(「道新旧蔵写真」)

「引揚援護愛の運動」の広報車
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