通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム8

カツギ屋の登場
津軽海峡を往復する人びと

コラム8

カツギ屋の登場  津軽海峡を往復する人びと   P637−P631

 戦後の食糧難は函館市も例外ではなく、食糧の配給は遅配・欠配が恒常化し、配給に依存していたのでは餓死を待つに等しい状態にあった。配給の絶対量の不足は市民を自衛のための買い出しや、高値でのヤミ買いに走らせた。まさに″一億総買い出し時代≠ェ出現した。買い出しも近隣町村から遠距離の買い出しに移り、人びとは1枚の切符を求めて早暁から函館駅や、十字街にあった交通公社に並んでもなかなか手に入らなかった(コラム6参照)。
 そのような状況のなかから、やがて食糧や生活物資などの運送を商売にする人びとがでてきた。かれらは当初「ヤミ屋」と呼ばれていたが、昭和23(1948)年前半からこれに代わって「カツギ屋」の呼び名が多くなる。カツギ屋とは「やみ物資その他の消費物資の行商人」のことをいい(『広辞苑』第2版)、まさしく戦後の食糧難の時代に登場した人たちであった。「外地」からの引揚者や復員者、敗戦で職を失った人たちなど、戦後を生きぬくためにカツギ屋をやった人びとが多かった。
 カツギ屋によって道内各地からは小豆・澱粉・雑穀・魚菜類が運ばれていたが、活動の中心は青函連絡船を利用しての米の輸送であった。青森からは主に津軽米のほか、酒・酒粕・りんごなど、函館からはスルメ・塩鮭・みがき鰊などの海産物が運ばれた。カツギ屋が背負ってきた品物は、函館駅西側の空き地(闇市・青空市場と呼ばれた)に運ばれて、ヤミブローカーや飲食店・旅館業者さらに家庭の主婦等に売り捌かれた。
 食糧等の流通はカツギ屋の働きに負うところが大きかったが、運ぶ品物が統制品のため、苦労して運んできても途中で警察官や鉄道公安官の取り締まりにあって没収されたり、公定価格で安く買い上げられることもあった。昭和20年代後半には主食の米を除いて統制品の枠も徐々に外され、取り締まりも緩やかになってきたが、それでもヤミ米を中心に抜き打ち的な調べがおこなわれていた。
 なかでも青森からの下り1便(午前5時頃に到着)の連絡船はヤミ船と称され取り締まりの対象になることが多かった。昭和26年2月21日の同便で主食の抜打ち一斉取り締まりがおこなわれ、その結果135人のカツギ屋が摘発され、120俵の米が強制的に買い上げられた。カツギ屋の9割までが青森市内の人たちだったが、なかには女性1人で米2俵分を運んできた者もあり取締官を驚かせたという(昭和26年2月22日付け「道新」)。

函館桟橋前(昭和31年、金丸大作撮影)

米を運ぶ女性(昭和34年、金丸大作撮影)
 昭和24年の新聞によれば食糧の生産や流通も徐々に回復してきて、5月には市の備蓄米も3か月分と戦後最大となった。この食糧事情の好転と鉄道運賃の値上がりで、前年春には1航海2000円も儲けがあったが、せいぜい500円程度しか利益があげられず、割に合わなくなってやめていく古顔のカツギ屋が多かったという(昭和24年5月24日・11月9日付け「道新」)。
 ヤミ米の下落で儲けが少なくなってくると、函館でガンガン部隊の鮮魚と交換してひと儲け働く人たちもでてきた。漁村からトタンでできた箱(ガンガン)に鮮魚を入れ、運んでくる人びとの集団をガンガン部隊と呼んだのである。しかし、魚の悪臭が乗客の不評をかって、2月3日には40人が乗船拒否になっている、という事態も生じている(昭和25年2月5日付け「道新」)。
 もっとも米の端境期(はざかいき)になるとヤミ米が値上がりをし、これに比例して青函往来のカツギ屋も激増するのは例年のことであった。昭和28年9月には午前中の3つの便それぞれに200人以上、多いときは250人から300人も降りてくるありさまで、一般乗客の迷惑になってはと乗船の際や満員のときは後回しにされ、降りるときも一番最後にされた(昭和28年9月13日付け「道新」)。
 また年末もカツギ屋にとっては書き入れ時で、とくに白くて足の強い津軽のもち米の需要が増えてくる。昭和31年は本道が不作、対岸が豊作というので、こんなうまい年はないとばかりにカツギ屋諸侯にまじって青森の農家の倅たちが仲間入りして、1日600人にあまる人びとがやってきた。1人で米2俵を担いだり持ってくる力持ちがザラで、女でも1俵以上というから600人で毎日900俵からの米を函館に担ぎ込んでいる勘定であった(昭和31年12月28日付け「道新」)。
 世の中が落ち着くにつれ、若い男性などは地道な職に転向し、これに代わって中年者や女性のカツギ屋が増えていった。女性のカツギ屋の活躍について、昭和29年10月12日付けの「函館新聞」は「カツギ屋という職業は認められていないけれども、彼らの仲間は女が五分の四をしめる。夫に死に別れ、老人子供をかかえて生活の支柱となっている者がかなりいる。また夫が病気で妻が看病しなければならないので、その娘が両親のためにカツギ屋をして一家を支えているのも多数だ。女が男を凌いで生活権の獲得に体をはっているのはカツギ屋の世界だけであろう。彼女らは重い荷物を背負ってつらい思いをしているが、最も楽しいときは船の中で仲間が沢山集まって雑談にふけるときだ」と記している。
 カツギ屋の大きな荷物は一般乗客に迷惑がかかり、また車両甲板の下にある3等雑居室までの昇降もたいへんだったので、3等通路前部の舷窓側に荷物を積み上げゴザなど敷いて休んでいた。ここはカツギ屋の指定席のようなものであった。昭和29年9月の洞爺丸遭難のときは3等通路にいて死亡した者も多かったが、また50余名の生存者もいたといわれている(昭和29年10月12日付け「函新」)。
 戦後の食糧難やうまい米をという要望に応えていたカツギ屋も、カーフェリーなど交通手段の発達や自主流通米制度の実施により脇役にすぎなくなっていった。昭和44年には「いま活躍しているのは数十人程度。月間搬入量はせいぜい三○○トン」、同54年には「カツギ屋仲間は今では五、六人。『今どきやる仕事じゃないよね』とおばあちゃん。行商の時代は終わろうとしている」と報じられた(昭和44年2月1日・同54年7月24日付け「道新」)。
 昭和63(1988)年3月、青函連絡船は廃止されたが、その時にはすでにカツギ屋は姿を消してしまっていた。(青木誠治)

3等通路前部に積み上げられた米の山(昭和30年、金丸大作撮影)

連絡船の3等通路(金丸大作撮影)

函館駅前はカツギ屋が運んだ物資で闇市ができた(金丸大作撮影)
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