通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム11

学校給食の始まり
第1日目は鮭・鱒・鯖の缶詰

コラム11

学校給食の始まり  第1日目は鮭・鱒・鯖の缶詰   P652−P656

 下の表は平成13(2001)年、函館の市立小学校のある日の学校給食メニューである。
 給食1食のエネルギーは640キロカロリー、蛋白質25グラム、そのほか脂肪・カルシウム・鉄・ナトリウム・ビタミンとすべての栄養素の1食当たりの摂取量(文部省基準)を満たし、とくにビタミンは1日の必要量の3分の2に近い量が摂取できるよう配慮されているという。また、メニューには主材料も明記してアレルギー体質の子への注意も喚起している。
平成13年度5月 ある市内小学校の給食メニュー
日/曜
献立表
おもな材料
血や骨となるもの
からだの調子をよくするもの
熱や力になるもの
28/月 スライスパン・牛乳
はっぽうさい

かぼちゃコロッケ
ブルーベリージャム
卵 牛乳   こむぎこ 
  ぶた肉 いか
かまぼこ うずら卵
にんじん ほうれん草
玉ねぎ たけのこ
もやし きくらげ
じゃがいも 油
でんぷん さとう
    かぼちゃ こむぎこ パンこ 油
    ブルーベリー さとう
29/火 ごはん・牛乳
だいずのいそに

ししゃもフライ
あえもの
牛乳   せいはく米 きょうか米
  ぶた肉 油あげ
だいず ひじき
にんじん ごぼう
こんにゃく
じゃがいも 油
さとう
  ししゃも   こむぎこ パンこ 油
  くきわかめ きゃべつ きゅうり みかん 白ごま さとう ごま油
30/水 コッペパン・牛乳
ポテトポタージュ

とりからあげ
メロン
卵 牛乳   こむぎこ 
  ベーコン 生クリーム
スキムミルク
玉ねぎ パセリ じゃがいも バター
こむぎこ
  とり肉 しょうが にんにく  でんぷん 油
    メロン  
31/木 ごはん・牛乳
とうふのたまごとじ

アスパラソテー
やきのり
りんご
牛乳   せいはく米 きょうか米
  とうふ 卵 とり肉 にんじん 長ねぎ
たけのこ しいたけ
グリンピース
さとう
  ウィンナー アスパラ とうもろこし
    やきのり  
    りんご  
函館市教育委員会資料より
 実に至れり尽くせりの感のある最近の学校給食であるが、学校給食の最近の悩みは″残食″だという。毎日捨てられる残食の処分の問題もさることながら(これも大きな問題ではあるが……)、100パーセント食することによって初めて摂取される栄養のことを考えると、ぜひ残さないで食べて欲しいと関係者はいう。1日3食の年間総食数1095食の内、学校給食の実施回数は約185食。年間食数のわずか6分の1のなかでの奮闘が続けられているのである。
 それでは、食糧難といわれた戦後のこどもたちの学校給食はどうだったのだろうか。現在のような小・中学校の学校給食はどのようにして始まったのだろうか。「学校給食法」が制定される昭和29(1954)年頃までの様子を当時の新聞報道などから探ってみよう。
戦前と戦後の体格の比較(11歳)
  昭和13年 昭和23年 昭和27年
身長 133.0cm 130.4cm 132.5cm
133.2cm 130.3cm 133.1cm
体重 29.2kg 28.2kg 29.2kg
29.5kg 28.2kg 29.6kg
胸囲 65.0cm 64.6cm 65.6cm
63.8cm 63.4cm 64.5cm
『学制百年史』より
 戦前・戦後の11歳児の体格を比べると(右表参照)、戦中・戦後の食糧難が児童の体格低下をもたらしたことがわかるが、戦後来日した米国教育使節団も、一刻も早い児童の体位向上の対策の必要性を指摘している(『函館市公報』44号)。
 このようなことから政府は、昭和21年12月に、給食費の実費徴収や施設設備経費の一部国庫負担などを内容とする通牒を出して(「学校給食実施の普及奨励について」)、翌22年1月からララ物資(第6編第1章第4節参照)や元軍用の缶詰を使った学校給食を全国300万人の児童に実施した。戦前、経済不況による就学困難な児童救済など一部児童への給食は実施されたが、現在のような全児童対象の学校給食が全国的に実施されたのはこの時からである。
 食糧難による休学児童の増加問題を抱え、学校給食の実施に迫られていた函館市も、昭和22年2月に国民学校長会議を開き、放出された缶詰を北海道師範附属小学校や函館盲唖院も含めた25校3万2000人の児童に配分することを決め(昭和22年2月5日付け「道新」)、2月27日から政府配給品依存による学校給食を開始した。ちなみに第1日目は、9校の4年生以下と女子小学校の全児童に、連合国の好意によって与えられたという説明の後に、サケ、マス、サバの缶詰が出されている(同22年2月28日付け「道新」)。
 温食(ミソ汁、スープなど)や粉ミルクなど給食の内容や回数は各学校の実情によりさまざまだったが、昭和26年2月からは、ほかの市制施行都市とともに函館市も、主食(パン)・副食・粉ミルクの3品で600カロリー(現在の単位はキロカロリー)を基準とする″完全給食″を実施した。設備の関係もあり、最初から3品の完全給食が実施できたのは、モデル校の高盛小学校だけだったが(昭和26年2月13日付け「道新」)、国の補助を受け施設整備を進めながら市内各校に広がった完全給食の評判は良かった(下表参照)。
給食に関する世論調査
                            対象:21小学校、18,812人
調査内容
該当率
(1)給食の量が足りなくて帰宅後食事をする
(2)少々足りないようだが食べない
(3)足りているようだ
(4)少々食費がかかっても給食内容を充実して欲しい
(5)今のままでよいから食費を上げないで欲しい
(6)よくかんで食べるようになった
(7)食物の好き嫌いがなくなった
(8)食事の行儀が良くなった
(9)アメリカの援助打ち切り後、自費で給食を続ける場合
  1 パン・ミルク・副食で約250円〜300円になっても続けて欲しい
  2 ミルクと副食だけの費用 100円〜150円になっても続けて欲しい
  3 打ち切り後は給食はやめて欲しい
33.1%
42.4%
39.1%
32.1%
63.3%
49.8%
58.9%
47.6%

35.4%
42.7%
31.7%
昭和26年11月1日付け「道新」より作成

昭和30年代中頃の学校給食風景(市内小学校)

完成した給食調理室(松風小学校)

青柳小学校で粉乳ミルクを盛りつけている児童(昭和29年頃、函館市教育委員会『戦後学校教育の五十年』より)
 完全給食実施後の最大の問題は、実費負担分の増額とそれに伴う未納者の増加だった。主食を持参し、支援の副食やミルクの提供で月額40円程度だった給食費が、完全給食になって主食のパン代(50円)と副食費(100円)で月額150円に値上りした。
 さらに講和条約調印により完全給食実施の基本となっていた占領地域救済(ガリオア)資金による小麦の贈与が打ち切られたため、従来同様の3品600カロリーの給食を週5回維持するには、月額270円の給食費が必要となった。
 回数の減か増額かの選択に迫られた市は、とりあえず昭和27年4月からは全市一律週4回のB案(週5回がA案、週3回がC案、温食のみをD案とし討議)を1か月170円で実施したが、翌28年からは各学校の自由裁量とし、B案を基準に平均200円前後の給食費で継続となった。しかし給食費の未納者は一段と増加し、給食の廃止を訴える声も大きくなった。
 各市のこのような状況に対応し、国は教育の一環と位置付けた給食の安定した実施を図るために、昭和29年6月「学校給食法」を制定し、給食の目的および国や自治体、保護者の分担などを明確にしたのである。(辻喜久子)
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