通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第3章 転換期をむかえて

コラム54

カードとサインでお買い物
消費社会が生んだ有力企業

コラム54

カードとサインでお買い物  消費社会が生んだ有力企業   P870−P874

昭和50年、函館市内の法人所得10傑
順位
事業所名
所得額
(千円)
前年
順位
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
北日本信用販売
東和電機製作所
日本化学飼料
函館信用金庫
富田病院
鈴木事業所
佐藤木材工業
松本組
テーオー小笠原
小熊水産倉庫
952,527
273,671
272,535
196,200
189,412
165,496
158,982
156,478
155,922
153,070
2
7
5
8

12
9

6
昭和51年2月16日付け「読売」より作成
 昭和50(1975)年に函館の法人所得番付でトップに躍り出て以来、その位置を占め続ける企業がある。その名は(株)ジャックス、当時の社名は北日本信用販売(株)といった(表参照)。
 経済の高度成長が終わりを告げた昭和50年代初頭、道南地域の景気が低迷するなかで、同社のみが気を吐いたのは、「カードとサインでお買い物」のキャッシュレス時代、クレジットカードが幅を利かせる時代が到来したことが大きな要因であった。
 戦後、サラリーマン階層が増加するとアメリカからの影響もあり、月賦による生活設計を図るものが顕著となる。函館でもこれに呼応するように次々と月賦会社が設立された。
 昭和25年の函館サービス会社と函館百貨サービス会社の登場を皮切りに(昭和27年10月30日付け「函新」)、専門店や小売店の月賦販売を扱う協同組合函館専門店会(昭和27年)などが誕生していった。
 これらの月賦業者が先行するなか、デパート信販を出発点とし、市民の生活様式の変化や消費動向を背景に月賦販売を市民生活に定着させ、消費意欲を呼び起こす企業戦略を基に業績を伸ばし続けたのが、冒頭の(株)ジャクスであった。同社の創業後の動向を『ジャックス三〇年のあゆみ』からひもといてみよう。
 昭和26年、東京に日本信用販売(株)が創立されデパートの月賦販売が始められた。こうした動きに関心を持った人物が函館にいた。市内で洋品店勤務をしていた渡邊達也と衣料品店の役員山根要であった。彼らは函館屈指の財界人、伊部政次郎を担いで、棒二森屋と丸井今井の2大デパートに月賦販売の提携を持ち込み、当初は棒二森屋デパートとの業務提携を実現させ、昭和29年6月に国内で2番目となるデパート専門月販会社のデパート信用販売(株)を設立した。

初代社長伊部政次郎(『ジャックス三〇年のあゆみ』より)
 資本金230万円、初代社長に伊部が就任、職員はわずか5名、これが(株)ジャックスのルーツであった。広い地域への事業展開を意図したことから社名に函館など地域名をつけるのを避けた。
 創業時は代金の回収に重点を置き、顧客の会員は官公庁、学校、有力企業を対象に職場単位の加盟・契約とした。会員は保証金(300円)を納めてクーポン券(2500円)3冊を受け取り、3か月分割で購入代金を支払う仕組み。発足1か月で職域会員70、個人会員1300人で、使用クーポン券は衣料品が60パーセント、食料品20パーセントで生活必需品が8割を占めていた。その後、高額のクーポン券も発行されたが、耐久消費財を月賦で購入する時代はまだ先のことであった。
 創業2年目で会員数は6000人を突破し、月単位の売り上げも、当初の20万円から800万円余へと大躍進した。月賦販売制が電気洗濯機、ミキサーなどの家庭電化製品の普及に大きく寄与していった(コラム36参照)。
 デパートとタイアップした展示即売会では、2週間足らずで洗濯機やミキサーが数十台という単位で驚異的な売り上げをみせた。さらに消費者のニーズや要望に合わせて、家具類への長期月賦制の適用、デパートが扱わない石炭燃料やオートバイ、スクーターの直接販売を実施して業績を伸ばし、昭和34年の「皇太子ご成婚ブーム」の際には、「理研テレビ」の総代理店となって、14インチポータブル型テレビを5万円の価格で月賦販売し、テレビの普及にも一役買っている(コラム35参照)。

デパート信用販売株式会社のクーポン券(『ジャックス三〇年のあゆみ』より)

1965年版『函館商工名鑑』の広告
 信販業が認知されると、消費者は信用ある専門店でのクーポン券使用を望み、専門店もデパートに準ずる信用のある店となることへの期待感を持った。創業当初は、価格に対する信用、品物に対する安心感がデパートにあったが、高度成長により品物が豊富に出回り、専門店の良さが発揮されていくと、消費者の利便を理由に専門店へも門戸を開いていった。
 昭和33年には、加盟・提携店は、丸井今井デパート函館支店の加盟もあって127店となった。リスクより消費の拡大を見込んだ個人会員制度を新設したこともあって、会員は約5万人と激増し、取扱高も前年の倍増4億6000万円となった。
 専門店や小売店の加盟が増加した経営実態にあわせて、翌34年には社名を北日本信用販売(株)と変更し、翌、全国に先駆けて消費者金融(融資保証業務)を開始した。函館商工信用組合と提携し、教育、旅行、住宅補修などの用途で5万円限度の融資保証であった。
 無担保、利息月2.4パーセント(当時の公益質屋3パーセント)、返済は3か月から10か月の分割払いであった。5日以内の融資という処理からレジャー費用などの融資を受ける者も多くなり、金融の大衆化を先取りすることになった。提携金融機関も7社に増加し、融資保証業務の実績も順調に伸び、昭和37年下期には6000万円台にのぼった。
 この頃から消費者の所得水準が向上し始め、日用品の現金購入傾向が強まり、クーポン券販売に陰りが見え始めた。この対応として導入されたのが、利用代金分割返済・購入限度額2万5000円の「信販小切手」であった。高額な耐久消費財の購入が増える消費構造の変化も背景にあり、その後のクレジットカードの先駆けとなった。
 昭和40年代のなかばに入ると、北日本信販(株)の資本規模は2億円、取扱額も70億円をこえた(図参照)。北海道・東北地域に支店網が拡充され、社名にふさわしい企業へと成長していった。さらに首都圏への進出(昭和47年)後には短期間で全国的な営業網(大阪、名古屋、広島、福岡など)を張りめぐらし、そのテンポは、この業界の先駆けたる日本信販(株)を凌ぐものがあった。
 全国展開を契機に、昭和51年社名を(株)ジャックスと改名、全国紙は、「津軽海峡を渡って全国企業へ育った数少ない道産子企業のひとつ」と報道した(昭和52年2月25日付け「日経」)。
 昭和53年には東京証券取引所第1部に上場され、有力企業へと脱皮した。本部機能を東京に集中させ、函館本社も函館支店と名称を変更したが、登記上の本店所在地は依然函館である。企業発祥の地である函館という地域への強い関心の表れとみることができよう。
 ちなみに(株)ジャックスは平成元(1989)年旧本社社屋(末広町・元第一銀行函館支店)を函館市に寄付したが、現在、この建物は函館市文学館として活用され、西部地区の歴史的な街並みにふさわしい重厚な佇まいを見せている。(菅原繁昭)

旧本社社屋
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