通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第3章 転換期をむかえて コラム53 ソ連戦闘機ミグ25事件 |
コラム53 ソ連戦闘機ミグ25事件 函館をゆるがした19日間 P865−P869 第2次世界大戦後の世界情勢はアメリカ、ソ連の2大国の対立を軸とした東西冷戦体制を生み、西側がNATO(北大西洋条約機構)を、東側はワルシャワ条約機構の軍事同盟を組織、互いに軍事増強をおこなっていた。日本は朝鮮戦争を契機にアメリカの指示で昭和25(1950)年に警察予備隊を発足させた。翌年、警察保安隊と改称、昭和29年7月には「戦力なき軍隊」と言われる自衛隊に改組、新たに航空自衛隊を新設し、以後専守防衛を基本に着実に戦力を増強していくのである(講談社『日録二〇世紀 一九五四年』)。 冷戦が続いている昭和51(1976)年9月6日、函館の街が世界の注目の的となる軍事的事件が突如発生した。この日の「北海道新聞」夕刊は、「ソ連戦闘機、函館着陸」と題し、同日午後1時54分頃函館空港にミグ25らしいソ連戦闘機が緊急着陸、乗員1名が短銃1発を威嚇発射、その乗員を道警函館方面本部が事情聴取していることを1面で報じている。
ミグ25のパイロットはビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉、日本を経由しアメリカへの亡命を目的としてウラジオストク東方のサハロフスカ空軍基地を発進、ソ連側のレーダー追跡を逃れるため超低空で飛行し千歳基地を目指したが計画以上に燃料を消費し、予定外の函館空港に着陸したという(昭和51年9月7日付け「道新」)。ソ連からの日本への亡命事件は昭和29年以降この事件までで12件、軍用機での亡命は初めてである(同前)。 ベレンコ中尉は6日事情聴取などのために警察が密かに準備した湯の川グランドホテルに滞在した(昭和51年9月8日付け「朝日」)。そして7日午後、警察の徹底した隠密作戦のなか、ホテルを出発、北海道警察のヘリコプターで函館から航空自衛隊千歳基地へ、その後自衛隊機で同埼玉県入間基地へと向かった。
市民の話題はもっぱらミグ25に集中、なかにはこの年7月にイスラエルの特殊部隊がウガンダのエンテベ空港で強行した作戦を例に、ソ連が機体の奪還または破壊するのではないかという物騒な噂も流れた(昭和51年9月8日付け「読売」)。自衛隊函館駐屯地では万一の事態を想定し、たまたま駐屯地祭りの見せ物として札幌より運ばれていた対空高射砲、61式戦車に弾薬が密かに準備された(前掲『ミグ25事件』)。 ミグ25は当初出入国管理令違反容疑の証拠品として函館地方検察庁の押収品であったが、ベレンコ中尉亡命後複雑な手続きを経て防衛庁の所管となる(同前)。そしてソ連への返還前に徹底調査を実施するため航空自衛隊茨城県百里基地へ移送が決まり機体の解体作業が開始された(昭和51年9月18日付け「道新」)。 9月24日夜、アメリカ空軍の世界最大級輸送機C-5Aギャラクシーが函館空港に初めて舞い降り、翼をもがれ胴体だけのミグ25が大勢の市民らに見守られ巨大な貨物室に呑み込まれていった(昭和51年9月25日付け「道新」)。ミグの胴体には自衛隊員の発案で「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」という横断幕が張られていた(前掲『ミグ25事件』)。ミグ見物客に畑を踏み荒らされ被害を受けた農家、便乗商法で儲けた飲食店、売店など(昭和51年9月25日付け「毎日」)、市民にさまざまな思いを残し19日間におよんだミグ25事件の函館での舞台は幕を閉じた。 その後ミグ25はネジ1本まで徹底的に調査され11月15日、茨城県日立港からソ連貨物船に積み込まれ日本を離れた(前掲『ミグ25事件』)。 ミグ25事件は日本の防空体制に大きな衝撃を与えた。稚内の自衛隊電波傍受施設がいちはやくソ連側の異変を捉え、奥尻、大湊などのレーダーサイトも国籍不明領空侵犯機の姿を捕捉、千歳基地からは自衛隊機2機がスクランブル(緊急発進)した(同前)。しかし各レーダーサイト、自衛隊機ともに超低空で飛行するミグ25の行方を見失い、やすやすと函館空港に着陸された。超低空での侵入は捕捉不可能という防衛網の弱点をさらけ出す形となった(昭和51年9月8日付け「道新」)。この事件を契機に最新型戦闘機が導入され、超低空も監視可能な、軍事大国のみが保有する高価な空中警戒管制機までもが導入された。 秘密のベールに包まれていたソ連の最新型戦闘機が防空網の盲点をつき函館に飛来したこの事件、偶然とはいえ、古くからロシア・ソ連と交流がある函館が舞台となったことに、何か不可思議な因縁を感じる事件だった。(尾崎渉)
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