通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第3章 転換期をむかえて

コラム52

オイルショックと狂乱物価
消費社会、モノ不足の幻影

コラム52

オイルショックと狂乱物価  消費社会、モノ不足の幻影   P860−P864


米穀・燃料店の店頭
 昭和48(1973)年10月に第4次中東戦争が勃発すると、産油国が原油価格の引き上げや禁輸措置を発表した。原油輸入頼みの日本では、たちまち産業界に重大な影響を及ぼし、価格の高騰で、日本は石油危機、「オイルショック」の渦のなかに巻き込まれた。
 石油の供給制限によって生産ラインが低下してモノ不足が発生するという噂が先行するなか、翌11月にはなぜかトイレットペーパーの買いだめ騒動が大阪で起こり、首都圏へと飛び火して店頭からモノが消えはじめ、国民は混乱状態に陥った。その後は狂乱物価が市民生活を直撃した。
 原料不足や資材の高騰、操業時間の規制などは物価の急騰と、インフレを発生させる。しかし、石油危機以上に深刻だったのは、消費者のパニック心理であった。
  前年からインフレ傾向が続き、物価高の影におびえてモノ不足の噂を信じた消費者に、「いま買っておかなければ、買えなくなる。モノがなくなる」という風説が口コミで広がっていた。買いだめに走る大衆心理が、モノ不足に拍車をかけ、生活防衛という本能が人びとにそうした行動をとらせたのであった。
 首都圏ほどではないにしろ函館も例外ではなかった。冬場を控えて最需要期となる灯油類をはじめ建築資材や砂糖、紙製品、洗剤などの生活必需品が品不足の噂に便乗して値上げされはじめ、トイレットペーパーなどを買い求める客がスーパーマーケットなどに押し掛けた。
 函館市民生協では品不足が伝えられたこともあり、紙、砂糖、洗剤は、10月から12月までの間に前年よりも2倍以上となるすさまじい売り上げを記録した。モノ不足の幻影におびえた消費者がこれらを買い尽くしたために値段もうなぎ登りとなった(昭和49年1月20日付け「道新」)。
 市役所には市民から不安を訴える声や苦情が殺到した。石油危機を背景とした物価問題は一地域にとどまる問題ではないにしても、市民団体などから市に行政指導を求める声があがっていた。

昭和48年に函館亀田合同消費者大会が開催された
 冬場の灯油確保のため、10月から翌月にかけて函館消費者協会などを中心とする函館亀田灯油値上げ反対市民会議と販売業者の函館地方石油業協同組合との懇談会が開かれた。国際的な石油不足を背景に業者側は強気で臨み、18リットル缶450円と前年比の5割増しを譲れないとする業界との論議は平行線のまま物別れした。市民会議は市に請願書を提出するとともに灯油の入荷量は減少していないこと、値上がりを見越した業者の買い占め、業者の宣伝につられた消費者の買いだめがさらに値上げをあおっているとして、これまでの5缶買いをやめ1缶ずつを買い、灯油の節約も奨励するという買い控え作戦を市民に呼びかけた(昭和48年10月23日付け「読売」)。
 函館市は、12月、庁内に函館市物価問題連絡会や消費生活物資問題相談所を開設し、消費者の苦情処理や流通状況調査をおこなうことにした。そして同月1日には市内のスーパーなど23店を対象として、味噌、醤油、サラダ油、天ぷら油、トイレットペーパー、白ちり紙、石けん、砂糖など10品目の生活必需品の価格調査を実施している。
 その結果として、一時の買い急ぎ、買いだめといった傾向は一段落して各店の販売量も安定しており、全般的には入荷が順調で品不足は今後ない見込みであるが、価格は高値安定との分析結果を発表した(昭和48年12月6日付け「道新」)。この調査は継続しておこなわれ、公表された価格は市民に買い物の目安の役割を果たしたが、年明けの調査では値上げ傾向含みで高値で推移しており雑貨類の一部に品不足状態をみせていた。
 こうした調査のなかでカミソリ、てんぷら油、小麦粉など一部商品の値上げの過程が明らかにされた。いずれも品不足、品薄を理由に店頭から一時姿を消し、数週間後に、値上げ品が並べられる、意図的な値上げ商法だった。この事態への市の対処は限界があり、改善要請がやっとで、ボイコットなどをして賢い消費者でいることを力説している(昭和49年1月18日付け「道新」)。
 49年2月には市は新たに市民生活安定緊急対策本部を設け、専任職員を配置して産業用物資の調査や北海道の立ち入り調査にも協力するなど物価問題に正面から取り組むことにした(昭和49年2月2日付け「朝日」)。
函館における月別物価推移(昭和48年6月〜49年3月)
単位:円
品名
48.6
48.9
48.12
49.3
49.6
49.9
49.12
醤油(1.8s)
味噌(1s)
砂糖(1s)
コーヒー(1杯)
灯油(18リットル)
洗濯代(ワイシャツ)
理髪代(大人1回)
洗濯用洗剤(2.65s)
ちり紙(800枚)
280
171
160
130
345
63
708
488
133
280
173
164
130
413
65
745
588
133
320
174
164
150
450
68
825
563
238
395
218
220
170
430
73
850
588
304
380
215
230
177
655
78
925
588
295
380
215
263
187
650
85
1000
623
238
395
220
338
200
630
93
1050
668
247
昭和49年・50年版『函館市統計書』より作成
醤油の「1.8リットル」は「49.3」より「2リットル」となる
 石油の削減でもろに影響を受けた運輸業、ふろ屋やクリーニング店、水産加工場など市民生活に関わりの深い業種への打撃は大きかった(昭和48年12月26日付け「道新」)。そうしたなか五月雨(さみだれ)式の値上げがあいついだ。クリーニング店は洗剤や包装用資材の値上がりを根拠にワイシャツ洗濯代を1.5倍にした。便乗値上げとの批判もあったが、背に腹は代えられないといったところであった。散髪・パーマ代も5割の値上がり、喫茶店もコーヒー豆の3割値上げや人件費の高騰などを理由に、1杯のコーヒーを150円前後から180ないし200円へと値上げしたから、気軽にコーヒーも飲めなくなったと多くのサラリーマンがこぼしたという(表参照)。
 重油を暖房用に用いている公共施設も影響が大きかった。市民プールは48年11月から重油が40パーセント削減されたため開館時間を4時間短縮、市民会館は大ホールでのリハーサル禁止、亀田福祉センターは、暖房を十分に入れることができなくなって利用者が激減、という状態であった(昭和49年1月8日付け「道新」)。
 狂乱物価に対抗するために消費者の買い控え傾向が浸透した結果、市内の2大デパートの売り上げが鈍化するという事態も生じている。それまで函館の購買力は景気の波に左右されないといわれてきたが、石油不足による値上がりが消費者をして買い控えに回らせたようであった(昭和49年2月10日付け「道新」)。
 49年2月ごろから砂糖などの一部が値下がりし、また「価格凍結」「値下げキャンペーン」などと銘打ったセールをおこなう商店も登場し(昭和49年2月19日付け「道新」)、トイレットペーパーや洗剤などが目玉商品として売り出されるとあっという間に売り切れるという現象も起きている。前代未聞の「買いだめパニック」の嵐は間もなく終息し、3月に入ると価格の動きこそ止まったものの高値安定という深い爪痕を残した。
 北海道がまとめた都市別消費者物価指数をみると函館市は昭和45年を100とした場合、48年が129.4となり、道内でも上位に位置していた。こうした実態に函館はけっして住みよくない、物価だって東京よりはるかに高いと不名誉な評価を下す転勤族もいた(昭和49年3月12日付け「朝日」)。この年の日本は戦後初めて経済がマイナス成長となる。
 物価高騰の波も収まり、平穏さを取り戻した昭和50年9月に開催された函館消費者協会の第8回消費者大会は、「一昨年秋の物不足パニックで狂乱的物価といわしめた物価の上昇は、消費者に多くの混乱をもたらした。消費者はこれらの体験からいかにして自分を守るか、再び被害を受けないためにどのようにするのか考えなければならない」と問題提起をおこない(昭和50年9月6日付け「毎日」)、新たな消費運動の模索を開始しはじめた。消費は美徳という右肩上がりの経済成長に節約が有効であると気づきはじめたのもこの頃であった。(菅原繁昭)
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