通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
|||||||
第2章 復興から成長へ コラム46 函館・大間間カーフェリーの就航 |
コラム46 函館・大間間カーフェリーの就航 「函館市大間町」の出現 P824−P828 北海道から津軽海峡をはさんで対岸をみた時、青森県の最北端、下北郡大間町周辺をめざすルートが最短であることは古くから知られていた。大正末から昭和初期、函館市は商権伸長策として海運会社に定期航路を開かせ補助金を出す、いわゆる函館市補助航路を開設、そのひとつとして函館・大間間の航路も開設された(『函館市史』通説編第3巻参照)。この函館・大間間の定期航路船が就航したのは昭和4(1929)年6月であった(『大間町史』)。しかしこの補助航路も戦前に廃止となっていた。
昭和31年7月には函館・大間間連絡航路促進連合会が設立され(昭和31年7月11日付け「道新」)、30年代後半まで開設運動が展開されるのである。 昭和39年7月2日、待望の函館・大間間に日本初の外洋フェリーボートとなる道南海運株式会社(現東日本フェリー株式会社)の大函丸が就航した(東日本フェリー株式会社『社史』)。このフェリー就航は、大間町民にとって函館をより身近なものとしたようで、生活航路として利用が定着していったという。就航後は旅客をはじめトラック、乗用車の輸送実績も順調に伸びていった(図参照)。
さらに昭和43年、自動車時代を受け東日本フェリー株式会社が青函航路にもフェリーを就航させ翌年には野辺地航路も開設、他航路とあわせ海峡ハイウェーとも呼ばれるようになった(昭和44年1月7日付け「道新」)。 こうしたなか、大間町、佐井村などから大函航路で市立函館病院へ診察に訪れる患者が増えていく。やはり大間から大湊へバスで出るよりも時間が短く便利だからという理由である(昭和四十四年十月九日付け「道新」)。 昭和49年7月18日付けの「北海道新聞」は、「まるで函館市大間町」と題してフェリー就航10年目の様子を記事にした。大間町民がフェリー就航で函館の病院に通い、買物やレジャーにと便利な足として利用していることが記されている。当時流行していたボウリングも函館でプレーするなどますます函館色が濃くなったという。 テレビは函館の放送をみて、パンや牛乳までも函館からの移動販売車で購入するなどまさに函館圏の町村とかわりなく、それ以上に「函館市大間町」という呼称がぴったりくる感じがするのである(昭和54年7月21日・24日付け「道新」)。 昭和48年以降は、この大函航路にも陰りが見えてきた。トラック、バス、乗用車の輸送実績が47年をピークに次第に減少していく(図参照)。北海道からの対本州航路も昭和45年8月に新日本海フェリーが小樽・舞鶴間にすずらん丸を就航させて長距離フェリーの時代に入っていったし(『新北海道史年表』)、青函航路の充実も手伝って、効率を追求する運輸業界の影響が出始めたのであろう。 しかし大函航路は東日本フェリーの各航路のなかで一番車が少なく乗客が多い便で、「地元の人たちの″足″となっているだけに、車の台数が少なくても便数は削減できません」といわれており(昭和49年7月18日付け「道新」)、事実、乗客数は一定程度を維持しているのである(図参照)。 大函航路は現在、夏場に3往復、冬は2往復が1時間40分で運行されている。ダイヤを見ても大間発が午前6時30分(夏ダイヤ)、函館着8時10分とまさに病院への通院時間に便利な大間優先のダイヤ設定となっている。函館側にはそれほどメリットがなかったとも思えるこの大函航路、大間町には生活に欠かせない重要な航路として成長し定着してきている。 最近はあまり聞かなくなった「函館市大間町」は、どっこい今も生きているのである。(尾崎渉)
|
||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第7編目次 | 前へ | 次へ |