通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム22 中野ダムの完成 |
コラム22 中野ダムの完成 水需要の増加とダム建設 P708−P712
函館市の水道は、明治22(1889)年の敷設以来、亀田川の水源1本に頼って給水がおこなわれていたが、昭和14(1939)年、湯川町の合併などの市勢の発展や人口の増加、さらには大火による教訓から防火水道の必要性にもせまられて、大正12(1923)年に建設された笹流ダムの57万6000トンの貯水量では不足を生じるようになった。昭和17年には1日平均の給水量が浄水能力を上回り、さらに昭和24年には1日平均給水量が4万トンにも達し、水圧が低下、給水不良地域が生じるなど、衛生上からも防火上からも大きな問題となった(函館市水道局『函館市水道百年史』)。 このため、新たな水源を求め、松倉川上流や下流に浄水場の新設が計画された。しかし、上流の硫黄鉱山操業に伴って水源汚染が生じ、その特殊処理施設の建設費用が膨大となるなどの理由で、松倉川からの取水を断念し、計画が変更されて亀田川にダム候補地を選定することになった。 昭和27年時点では、亀田川本流の上流をダムとした場合、貯水量こそ300万トンとなるが、下流域の水田に1日約3万トンの灌漑用水を供給することや、6億円という建設費用の捻出が課題とされていた。このため、より問題が少ない亀田川支流の笹流ダム上流にダムを建設する「支流案」に傾いていた。それは、貯水量が約60万トン増加し、最終的には合計120万トンが確保されることと、灌漑用水を考慮しなくてもよく、費用も2億円ほどと考えられていたからであった(昭和27年7月9日付け「道新」)。 しかしその後、笹流ダム上流の候補地の岩盤が、ダムの基盤としては不適当なことが判明し、新たに建設箇所を求めることになった。この結果、亀田川本流の上流4キロメートルにダムサイトの地を見い出し、ボーリング調査の結果、ダム基盤として適当と判定され、ようやく貯水池の建設が決定された。これが中野ダムであり、昭和30年度に有効貯水量60万トンとなる重力式コンクリートダムの建設が着工されることになった。 中野ダムの建設が開始された頃の函館市内では、2割以上の市民が水道を引けない状況にあって、あちらこちらに設けられている443本の共同水道栓が利用されていた。 「ごつい鋳物のカギを入れてぐいと引っぱり上げるとゴーッと音を立て、ライオンの口から水柱がほとばしるのは、文化住宅のきゃしゃな水道から出る細いジャ口の水とちょっと味が違うようだ。」(昭和32年4月5日付け「道新」)と表現された共同水道栓は、毎日の洗濯や炊事の洗い場としても利用されたが、飲料水は各家庭へバケツなどで運ばれ、大きな水瓶へ蓄えられた。もっとも水瓶については、水道を引いた家庭でも、渇水期の給水制限に備えるために用意されることが少なくなかった。 というのも、それまでの函館市内の給水は、水道利用者1人あたり1日125リットルで十分とされていたが、昭和35年時点では1日1人あたり300リットルを消費し、1日あたりの給水量は図のような伸びを見せていた。このため夏と厳寒期の渇水期には水不足を起こすなど、その対策が急務となっていた。配水網の末端地域では水圧が低下し、真夏や水産加工場などが最盛期を迎える秋口には蛇口を回しても水が出ないなどの状況があって、節水が呼びかけられ、その対応策として汲み置きの水の確保は必至であった。
中野ダムの完成は、水質的により安全な飲料水の供給、原水量の確保による灌漑期の取水をめぐる農民とのトラブルの解消、給水不良箇所の解消などの効果があった。 しかし、中野ダム建設を含めた給水施設の整備は、昭和25年の着手から数えると、すでに11年が経過していたので、市民の生活様式の変化や産業用水の需要増などが水の使用量に拍車をかけていた。 完成から間もない昭和37年の夏は日照り続きの天候となり、中野ダムは枯れ、笹流ダムも大幅に減水し、給水の時間制限がおこなわれるなど危機的状況になった。このため、新たな水源を求めて、松倉川上流に取水場が設けられるなど、その後も増加する水の需要を満たすために、新たな給水施設の建設が計画されていった(前掲『函館市水道百年史』)。(田原良信)
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