通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム21 函館ドックの繁栄と衰退 |
コラム21 函館ドックの繁栄と衰退 街の様相をかえた「浮き沈み」 P703−P707
日本は戦後復興を進めるなかで戦前からの建艦技術を活かすため、昭和22(1947)年から「計画造船」をおこなった。これは政府が毎年一定量の造船量を定め、多額で低利子の財政投融資資金を造船会社に提供するもので、昭和62(1987)年までおこなわれた。昭和20年代後半、日本の輸出製品の主力は繊維製品や小型機械類が中心であったが、30年代なかばから造船や鉄鋼が輸出の中心となっていった。これを支えたのが高度経済成長期における石油エネルギーであった。高度経済成長期に産業構造が重化学工業に中心をうつし、さらに日常生活においても石炭から石油へのエネルギー転換がその消費量を急激に伸ばした。急激な石油消費量の伸びに対応するべくおこなわれたのが、超大型タンカーによる石油輸送である。昭和47年、田中角栄が首相になり「日本列島改造論」が打ち出され、そこでは「大型タンカーによって日本は国内に世界最大の油田をもっているのと同じになる」とタンカーの重要性が叫ばれた。 このような時代の波にのった函館ドックの繁栄ぶりはたいへんなものであった。船を進水させるまでには船の性能を確かめる検査が必要となる。その検査官は外国から来ることがしばしばあり、その滞在用のゲストハウスが2棟も建てられた。また、ドックの社員は飲みにいくさいに現金をほとんど持っていくことはなかった。飲みに行く先々でドックの誰々というだけで「付け」がきいたのである。 こうして北洋漁業とともに函館の経済を支えていた函館ドックであるが、さらにそのドックを支えていたのが下請企業である。その数は、函館ドックが好況にわいた昭和40年代後半には、函館市内で関連請けの仕事をしていた会社は大小とりまぜて212社、従業員は約6200人にのぼっていた(昭和52年11月19日付け「道新」)。 好況時には「函館ドックに通っていた下請け作業員は約二千三百人、いわゆる本工(ドック社員)が二千三百人」(同前)であったから、ドック周辺の就業人口は非常に高く、その人たちを相手にする商売も数多くあった。 そのなかでも特徴的なのは会社周辺の入舟・弁天・大町の3町に数多くあった「もっきり」であろう(千代盛商会石塚信男氏談)。函館でいう「もっきり」とは「盛り切り」から転用されたと思われるが、酒店が店頭でおこなう立ち飲み販売をいう。販売される酒は日本酒か焼酎でビールはほとんど出なかったとのことである。酒店であり飲食業ではないため酒の加工は禁止で、熱燗も本来は禁止である。つまみも加工品は一切禁止で店頭にある珍味などを購入して酒の肴とする。函館小売酒販売組合ではたびたび「もっきり」行為に対して注意通達を出したが、組合も「もっきり」による販売量の比重の高さから容認せざるを得なかった。
昭和48年10月第4次中東戦争を契機に、石油輸出国機構は原油の段階的生産制限と価格の値上げをおこない石油多消費型の国に大打撃を与え、日本もその影響をまともに受けた。いわゆる第1次石油危機である。 石油危機以降、函館ドックの業績は落ち込んだ。昭和48年に完成した30万トンドックは、わずかに1隻のタンカーを造っただけで、その後は一度も機能せず現在に至っている(第6編第2章第3節参照)。
この要覧によれば掲載企業119社のうち函館ドック関連企業は57社(函館ドック内に本社をおく「函館ドック事業協同組合」15社と「協同組合函館ドック生産協力会」39社、「函館鉄工造機協同組合」3社)、取引企業をふくめると60社、関連企業のうち18社が入舟・弁天・大町にあった。函館ドックと命運を共にせざるをえない関連・下請企業の衰退は、函館の産業・経済構造に著しい変化を強いるものであった(第6編第2章第3節参照)。 国策によって成長し、函館市の基幹企業として市民生活に大きな影響をおよぼしてきた函館ドック。その繁栄と衰退は今なお函館市民と街の様相に影響をおよぼしているのではないだろうか。 平成11(1999)年12月、営業を続けていた千代盛商会が店を閉じ、ドック前電停から大町電停間の「もっきり」はすべてなくなった。(保科智治)
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