通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム31 函館市文化賞の制定 |
コラム31 函館市文化賞の制定 函館文化の発展のために P753−P757
この顕彰制度は、当初「函館市文化賞規則」で定めていたものを、昭和41年3月28日には、「函館市文化賞条例」に改め、現在に至っている。規則から条例への移行は、一般的には形式的効力の優劣の差違はないというものの、条例が住民の代表である議会の議決によって成立することを考えれば、函館市文化賞の格付けは、この時からランクアップされ、重みを持つことになったといってよい。いいかえれば、文化振興への貢献に対する評価がより高まったということになる。 ″文化″を一言で定義づけることは、容易ではないが、この条例にあっては、「文化とは芸術(音楽・文学・美術及び芸能をいう。)及び科学(自然科学及び人文科学をいう。)をいう。」と規定している。市文化賞の贈呈式がおこなわれる11月3日の「文化の日」は、昭和21年に国民主権・戦争放棄・基本的人権の尊重の現憲法が公布された日であった。公布の際の勅語で文化国家建設を謳ったことを受け、昭和23年7月の国民の祝日に関する法律(昭和23年法律178号)で、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日となり、昭和12年に生まれながら式日が一定していなかった文化勲章(昭和12年勅令第9号)も、昭和24年からはこの日が式日となった。また、すでに「北海道新聞」は、新憲法公布の日に北海道新聞文化賞の設定を公表、昭和22年から毎年受賞者を表彰しており、北海道も昭和24年に北海道文化賞を設けていた。
第1回の受賞者は次のとおりである。文学の阿部龍夫は、歌誌『無風帯』の刊行をはじめ、実作の精進と同好者の指導、郷土の歴史研究が評価された。美術では、赤光社が、洋画研究団体を創設し、技術の向上、研究と後進の指導につとめた業績。芸能では、池田セイ(芸名 藤間扇吉)が、50年にわたり邦楽舞踊の芸道に専心し、多くの門弟の指導、育成と邦楽舞踊界の発展に貢献。自然科学の小倉善平は、魚類の生態、生理及び冷凍、乾燥など、その利用についての科学的研究・発明により、函館の水産界の発展に貢献。人文科学では、堤清治郎が、文化に対する理解が深く、その発展、向上のため、常に後援を惜しむことなく、多大の寄与をしたことと美術的資料として価値の高い″鍔″の収集によるもので、4個人1団体が受賞した。受賞者の顔を紹介した「北海道新聞」は、「文化賞に輝く四人中三人までがあまりにも市民に馴染みが深い名」で、1人「小倉善平氏の名を今度の文化賞ではじめて知った市民が相当多いようである」として、あらゆる分野と学研一筋の研究者への目配りがいき届いた選考委員の対応を評価している(昭和25年11月3日から8日付け「道新」)。
また、この50年間にあって、外国人としてはただ1人、フランス人のグロード・フィリップ・ヒューバートが、平成10年に人文科学の分野で受賞している。宣教師として来道以来、日本文化に関心を深め、劇団の創立や文化教室の開催、道南の歴史を題材にした郷土発展の歩みを、市民創作「函館野外劇」として創設するなど、地域の文化振興に寄与した業績が、高く評価されてたのであった。 ところで、団体の選考にあたっては、メンバーに逸材が存在しているだけではなく、たとえ地味であっても、継続的な事業展開や郷土への貢献度、結束力などが求められるが、これまで受賞した16団体にあって特筆されることは、そのすべての団体が、今も着実な活動を展開していることである。 受賞者(団体)には、賞状と賞金、記念品が贈呈されるが、この50年間における賞金と記念品の移り変りをたどってみると、賞金は、第1回からが2万円、その後4回から3万円、7回から5万円、23回から10万円、41回(平成2年)からは30万円となっており、経済情勢のすう勢と共に、金額がアップされてきたことがわかる。 一方、記念品については、函館市の文化発展に貢献された人材や団体にふさわしく、歴史・伝統・重厚・敬愛といった要素をとりいれた品を贈ることとしており、24回までが鈴木達制作のブロンズ「女性立身像」、25回から37回が武内収太制作のブロンズ「月桂樹を持つ美の女神」、38回からは、日展理事である折原久左エ門制作のブロンズ「結(むすび)」となっている。 となみに、「結」の制作意図について折原は、「昭和四〇年頃、当時の日常生活の実情から醸養したテーマで、喜怒哀楽の生の日常を成立させている人間集団は、虚実の中にも強い結びつきがあってはじめて、それを拠りどころとし、拡がり、伸びの変動、行動が成り立つ。協力と強固のシンボルとして″結″を捉えて、造型化したもの」であるという(市総務部資料)。 昭和25年といえば、戦後間もない物不足の復興期の真っただ中であった。ただでさえ、衣・食・住に大変だったこの時代に、文化都市函館の建設に注視し、「函館市文化賞」を創設した先人の文化に対する先見の明は、半世紀にわたり、脈々と息づいている。それだけにこの賞は、市民の文化の振興発展に貢献した個人や団体への近親観の醸成や文化意識の高揚に与って力があったといってよいだろう。(桜井健治)
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