通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム40

朝市の移り変わり
市民の台所から観光土産店街へ

コラム40

朝市の移り変わり  市民の台所から観光土産店街へ   P799−P803

 現在の朝市は観光名所のひとつでもあり、高価なカニやメロンの店、海の幸を目玉にした食堂など旅行客相手の店が盛況である。そのほかに、野菜や果物、米穀、魚介、日用品などを売る昔からの店もあるが、その「庶民の台所」的な役割は、かつてほど大きなものではなくなったように思われる。朝市が現在の姿になっていった経過を振り返ってみよう。
 第2次世界大戦前、すでに人口20万人をこえた函館には、市民の胃袋を賄うために、大野や七飯など近郊町村から大量の野菜が搬入されていた。国鉄はそのために「野菜列車」を運転していたが、戦時中に中断し、昭和25(1950)年に6年ぶりに再開された。その模様は、「(列車には)一人十貫の持込みを認めているので毎日八百人からの人が概算六千貫から八千貫を持ち込んでおり、この野菜を整理するため本月五日から渡島蔬菜農協が肝入りになつて若松町三五、鉄道荷さばき所前の疎開地跡に朝市を立てた」と報道されている(昭和25年7月27日付け「道新」)。

市役所横の朝市(昭和29年、大和俊行撮影)

客のやりとり(昭和30年、大和俊行撮影)
 野菜売場となった鉄道荷さばき所前は狭すぎたので、渡島蔬菜農業協同組合は、建物疎開で空き地になっていた市役所横の土地およそ1000坪(現NTT東日本・日本銀行敷地)を借りて、8月からここに青空市場を開設した。
 敗戦直後、至るところにできた露天や青空市は、世情の安定につれ姿を消したが、ここは「朝市」として大市場になっていったのである。昭和29年には、大野や七飯のほか銭亀沢や上磯などからも、「一日平均六、七百の生産者と荷馬車三十台」が来て、売り上げは1日平均7、80万円にのぼっていた(昭和29年9月19日付け「道新」)。年中無休で新鮮で安いことが魅力だったのである。売り物も、野菜のほかに塩乾魚や菓子、衣料品と雑多な露天が出て拡大していったが、衛生上の問題など悩みもないわけではなかった。
 昭和30年代に入ると、借りていた敷地に電話局と郵便局が建つことが決まり、朝市は移転せざるを得なくなる。移転先をめぐっては紛糾もあったものの、昭和31年に若松町の埋立地横の市有地600坪を渡島蔬菜農業協同組合(当時の組合員約2500人)と朝市協和会(同50人)が買収することで落着し(昭和31年9月19日付け「道新」)、新しい場所で朝市が再開されたのである。さらに昭和34年には敷地の一角に鉄骨上屋が完成し、「朝日会、塩干部会、暁会」に所属する70軒の業者が入居した(昭和34年9月15日付け「道新」)。
 周辺は引揚者の経営する駅前マーケットや飲食店、倉庫が雑然と立ち並び、景観的にも治安のうえからも問題となっていた。そのため、市では昭和35年からの2か年計画で、道路を新設するなどこの地区一帯の整理を始めた(昭和35年8月5日付け「道新」、図参照)。こうして現在の朝市と呼ばれるゾーン(約3ヘクタール、400店、市商工観光部調べ)ができていったのである。
 移転しても安くて新鮮な食料を求める市民の利用は変わらず、大いに賑わった。売り手のほうは男性に混じって、戦争で未亡人となった女性など、一家の生活をかけて懸命に働く姿が少なくなかった。
 しかし時代の流れとともに、朝市を取り巻く環境や消費者の意識は変わり、それに対応すべく出店者たちは昭和41年に朝市連合会を組織するに至った(昭和62年に朝市協同組合連合会となる)。

整理される駅周辺(昭和35年8月5日付け「道新」)

カニを売る露天商(市商工観光部観光課編『はこだて』1978より)
 昭和50年に中央卸売市場が完成すると、生鮮食料品の流通拠点としての地位は失われ、小売り専門の市場として生きていかざるを得なくなった。さらに住宅地がどんどんと郊外に広がり、車社会に対応すべき駐車場も未整備とあって、朝市は否応なく客離れが進んでいったのである。この流れに対抗するために、朝市の近代化が課題となった。昭和51年に、駅前再開発の目玉として朝市の整備が期待されたが、零細業者が多くて負担に耐えきれないという理由で計画は棚上げされた(昭和51年12月12日付け「道新」)。
 そこで、お金をかけずに簡単にできるところからと、翌52年に、仲通の100メートルから車を締め出し、買い物天国をオープンさせた(昭和52年8月10日付け「道新」)。また営業時間は従来午前11時半までだったものが、昭和50年から、延長して午後1時半までとしたため、買い物客の増加につながった(昭和51年9月22日付け「道新」)。以来、時間延長はさらに進み、今では夕方近くまで営業している店もあるという。昭和56年には、駅二商業協同組合が共同店舗を新築、45業者が入居して、これまでネックだった地方発送用の配送センターも開設するなどさまざまなサービスの向上も図られた(昭和56年6月27日付け「道新」)。
 しかしそれにもかかわらず、市民の足をつなぎ止めるのは、容易なことではなかった。
 その一方で観光客の入り込みが増加し、観光客への販売が大きな比重を占めるようになっていった。昭和56年の年間総売り上げは推定で180億円、その2割にあたる35億円から40億円は25万人の観光客によるものだという(昭和60年4月27日付け「道新」)。
 観光客が総売り上げに占める比率は年々高まっているといい、昭和63年の連絡船廃止の危機も乗りこえ、観光スポットとしての人気は衰えることがなく現在に至っている。
 資源や環境という視点から「消費」も見直されつつあり、カニやメロンを並べた観光市場がいつまで存続できるのか楽観はできない。また、誠意のない売り方に観光客からクレームが寄せられることもあるという。
 観光に関係のない衣料品や雑貨など市民相手の店にも、厳しい現実が待ち受けている。これからの朝市のありかたを市民自身も考える時がきているのかも知れない。(清水恵)

市民の台所だった頃の朝市
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