通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 函館啄木会 |
函館啄木会 P587−P589 石川啄木が27歳の生涯を東京・小石川で終えたのは、明治45(1912)年4月13日朝のことであった。啄木の没後、実家のある函館に帰り入院生活を送っていた節子夫人も、翌年の5月5日、28歳の若さで亡くなった。夫人は生前、函館図書館主事岡田健蔵に依頼して啄木とその母および長男の遺骨を東京から函館へ移し、自らも同じ墓地へ埋葬されることになるのである。 啄木の1周忌にあたる大正2(1913)年4月13日、函館図書館で開催された追悼会には20余人が集まり、故人の肖像画を前にそれぞれの思い出を語り合った。続いて催された茶話会では、啄木が友人岩崎白鯨と共に大森浜を散策した折り、食べ残しを砂に埋めたという夏みかん、同人誌を編集中には必ず食べていた南部せんべい、函館にきて初めて味を知った和菓子の葛柏がふるまわれた。その席上、岩崎の提案によって故人を永く記念するための啄木会を結成することになり、当日の出席者全員を会員とし、岡田・岩崎両氏を幹事に決めた。さらに、啄木会の最初の仕事として「啄木文庫」の設立に向けて各自努力を傾けることとなったのである(大正2年4月15日付け「函毎」)。 啄木会会員阿部たつを著『啄木と郁雨の周辺』によると、その「啄木文庫」は、節子夫人の遺志によって函館図書館に寄贈された啄木の日記や手沢本に端を発し、また、岡田健蔵の熱心な収集活動に応じて啄木の親友で後援者でもあった宮崎郁雨と女婿にあたる石川正雄の寄附や寄託もあって次第に充実していったという。 しかし、函館啄木会の発足当時のメンバーは時代の移り変わりとともに減っていき、昭和30年頃には、宮崎郁雨ひとりが主体となっている状況であった。そこで、昭和31年、宮崎自身の人選により啄木ゆかりの人びとおよび現職の函館図書館長で構成するメンバーをもって、函館啄木会が再発足することになった。目標とする活動としては、毎年恒例となっている4月13日の「啄木忌」を主催するほか、啄木関係図書の出版や歌碑拓本の作成と頒布もおこなうこととした。とりわけ、重要視された任務は、主として寄託された資料から成る「啄木文庫」の正しい保存方法と取り扱いに参与し、それを運営することであった。
市立函館図書館に大切に収蔵されてきた「啄木文庫」は、全国的に例を見ない優れたものばかりであり、日本の近代文学史上において、欠くことのできない貴重なコレクションでもある。この資料の保存・整理、湿度や温度の調整、紫外線・虫害対策、盗難防止に関しては、数々の問題が横たわっていた。しかし、函館啄木会はこれらの問題に対しても熱意を持って真剣に取り組んできたのである。 |
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