通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第8節 宗教と文化の諸相
2 さまざまな文化活動とその担い手

公民館設置とその活動

「文化団体協議会」の結成

函館文化会

函館啄木会

函館文化会   P586−P587

 もとをたどれば、明治14(1881)年結成の「教員練習会」にまでさかのぼることができる文化団体である。その後、「函館教育協会」、「函館教育会」、「大日本教育会函館支部分会」と名称の変遷を経て、戦後新たに結成された「函館郷土文化会」と合併し、昭和33(1958)年、「社団法人函館文化会」として再発足した。
 当初は教員の有志が集まって、教員としての基礎教育や教育理論および学校管理の方法と生徒を教える技術などを研究するための組織であった。しかし、学校教育にとどまらず、機関誌を発行したり、講演会・音楽会を開催したりして一般市民に対しての啓蒙活動に意欲を示すようになってきたのである。さらに、戦後には図書の出版も手がけ、昭和28年に市立函館図書館所蔵の『亜墨利加一条写』の複製本、翌29年には郷土史研究家がNHK函館放送局から50回にわたって放送した話をまとめ、『郷土昔話』と題して刊行した。また、昭和32年、函館郷土文化会会長斎藤與一郎が、やはりNHK函館放送局で1年間連続放送した『非魚放談』を会員の阿部龍夫・神山茂・元木省吾が中心になって刊行委員会を構成して発刊したのである(神山茂編『函館文化会沿革史』)。
 前記の出版物は、いずれも幕末・明治時代から続く函館の人びとの文化的・先進的な、いわゆる「函館人気質」の一端をうかがうことができる意義のある事業といえよう。
 昭和38年の文化の日、長年にわたっての教育・文化に対する貢献が認められ、函館文化会は北海道教育委員会より北海道文化奨励賞を与えられた。以後、ますます活発な活動を通じて函館における文化の発展に向けての援助・協力を惜しまなかった。その具体的な活動の例をみると、函館市公民館と共催する展覧会、書道展、音楽会、講演会に対する助成金の拠出、石川啄木銅像建設、松前城再建事業、高橋掬太郎詩碑建立、「啄木文庫資料目録」出版費など、文化事業の資金の一部を寄附することは多岐にわたっている。したがって、これらの援助・助成金は数多くの文化活動を、まさに「奨励」する結果となったのである。
 また、史蹟調査会を設け、弁天台場、五稜郭、碧血碑、権現台場、函館護国神社、宇須岸河野館跡の各所に標注や説明板を設置し(昭和35年5月24日付け「道新」)、のちの観光案内板の先駆けとなった。このような市内にある史蹟の説明板設置は、市民および観光客にとって大いに役立つものとなったのである。なお、平成13年の時点でも函館どつく株式会社函館造船所の通用門脇に、「昭和三十五年五月 函館文化会建之」と記された「弁天台場跡」の標注が風雪に耐えた姿で現存している。
 こうして、函館文化会は創立100年に当たる昭和56年11月、人文科学の分野で函館市文化賞を受賞することになった(第7編コラム31参照)。この年、函館市文化賞の第1回から数えて30余年になるのを回顧して、それまでの受賞者の経歴や受賞理由をまとめた『文化賞に輝く人びと』が函館文化会の事業として発刊されたのである。

高橋掬太郎の詩碑除幕式(昭和36年、「道新旧蔵写真」)

設置された説明板(昭和35年、「道新旧蔵写真」)
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