通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第2章 復興から成長へ コラム26 住宅団地の造成 |
コラム26 住宅団地の造成 拍車がかかる東部地域開発 P728−P732 函館市の住宅難は、戦後10年経った昭和30(1955)年になっても、約3000戸の住宅が不足していた(コラム9参照)。昭和22年から人見町、駒場町、深堀町、松川町、梁川町などに市営住宅や、道営住宅、鉄道住宅(青函局)などの公営住宅が建てられてきたが、住宅難の解消にはなり得なかった。加えて、その後の核家族化による世帯数の増加は、住宅難を慢性的なものにしていった。そのうえ、昭和30年代には、市内の住宅地が底をつきはじめ、函館市郊外や亀田村の農地が住宅用地として転用され、市域東部に住宅団地が造成されていった。
函館市内の道営・市営の公営住宅の建設状況は、戦後の緊急避難的な様相もあった昭和20年代前半の市営住宅建設後は、建設ペースが鈍っていた。 昭和28年に最初の道営住宅(柳町に48戸)建設が始まり、以降、市営住宅を含めて毎年公営住宅が建てられていった(図参照)。 花園・日吉地区の住宅団地造りは、昭和35年から開始された。かつては多くが馬鈴薯・大根畑などの農用地であったこの地域に、両町合わせて428戸の公営住宅が建設され、2年後の昭和37年末には人口が約3倍にも膨れあがった(市総務部資料)。 昭和40年から、新たに現在の北海道函館北高等学校の上部に位置する約8万平方メートルの農地を住宅地に転用して住宅団地の造成を始めた。この「日吉上団地」には、3か年で市営住宅274戸、道営住宅188戸が建てられて用地はいっぱいとなり、函館空港に隣接する「高松団地」の造成によっても建設用地は不足していた。建設用地の不足もさることながら、昭和40年にあっても、市内の住宅困窮者は約7500戸と推定され、住宅事情はいぜん深刻な様相を呈していたから、公営住宅の建設のためにも新たな住宅団地造成が必要であった(昭和42年7月4日付け「読売」)。
団地造成当初は、生活道路や施設整備が住宅建設に追いつかない状態だったが、昭和45年には上湯川小学校の開設、さらにショッピングセンター、警察官派出所、内科・小児科診療所、保育所、児童館などが順次整備され、浴場、理容院、美容院なども営業を始めた。造成開始5年で、かつて「たんぼだったこの地区」は、公営住宅が1000戸をこえ、一般住宅用分譲160区画の大団地に変容した。この団地の建設費は、函館市だけで用地の取得費と造成費で6億5000万円、住宅建設費で18億8000万円かかっていた(昭和48年8月10日付け「読売」、市都市建設部資料)。 上湯川団地に匹敵する大団地として造成されたのが、五稜郭公園の裏手、本通地区の「亀田中央団地(農住団地)」である。「業者顔負け 農家の宅造」と揶揄されながらも、「″安値が花″の人気」を博したこの団地造成は、函館市本通中央土地区画整理組合が施行した(昭和50年9月9日付け「読売」)。本通地区の農家などが休耕田や原野を供出し、農地の切り売りを防ぎ、団地造成による土地の付加価値を高めて、離農農家の収入の安定を図るのがおもなねらいであった。 約48万平方メートルにおよぶ水田などが約1200区画の宅地に造成されていったが(昭和49年12月13日付け「道新」)。さらに小学校、中学校の開校や公園、保育所の開設、道路、下水道の整備にともなって追加造成がなされ、最終的に約50万9000平方メートルの水田地帯がベットタウンに生まれ変わった(昭和50年11月16日付け「道新」)。 このような住宅団地の造成は、昭和30年代から40年代にかけて函館市内の農地の約2割を消滅させ、景観も大きく変わった(昭和39年8月9日付け「道新」)。その後も住宅団地造成へ向けた農地の転用ブームは続き、昭和51年から始まった、人口1万人台のニュータウン構想の「西旭岡団地」の造成に象徴されるように、函館市の人口は圧倒的に市域東部に偏在していった。 住宅団地の造成は、戦後の住宅難解消の手だてとして始まったが、今では都市再開発を含めた土地利用・都市計画(街づくり)と切り離せないものとなった。(花岡さえ子)
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