通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第3章 転換期をむかえて

コラム56

北海道の玄関口でなくなった函館
消えた道東・道北への直通列車

コラム56

北海道の玄関口でなくなった函館  消えた道東・道北への直通列車   P880−P884


長い間北海道の表玄関だった函館駅
 昭和55(1980)年5月30日午前4時ちょうど、青森0時10分出航の青函連絡船深夜便八甲田丸が函館に到着、大きな荷物を手にした数百人の人波が駅のプラットホームを目指して移動する。ホームには4時45分発釧路行き特急「おおぞら1号」、4時50分発旭川行き特急「北海」、5時5分発札幌行き急行「ニセコ1号」の3本の列車が待機している。4時25分、続行の連絡船十和田丸も函館に到着、「はつかり11号」からの乗り継ぎ客の一群がホームに押し寄せた(『鉄道ジャーナル別冊5 北海道の鉄道』)。
 函館駅は連絡船を介し本州からの接続を受ける釧路、稚内、網走などへの長距離列車が発着する「開業以来北海道の表玄関」だった(昭和55年12月19日付け「道新」)。函館から道内の主要な都市へ乗り換えなしで1本の列車でいけた。しかし、昭和55年10月のダイヤ改正から連絡船の減便と函館起点の列車削減が実施され「本道の玄関口を千歳空港駅に明け渡し、ダイヤ編成の中心地も札幌に手渡した」のである(昭和55年10月18日付け「道新」)。
 明治37(1904)年10月、北海道鉄道会社の函館・高島(現小樽)間が全通、41年には函館・青森間に比羅夫丸、田村丸の2隻の新鋭国鉄連絡船が就航し鉄道との連絡運輸が開始された。本州と北海道各地が連絡船を介し鉄路で結ばれ、函館は交通の要地、表玄関としての地位が不動のものとなった(『先駆−函館駅八十年の歩み−』)。
 戦後の復興期を経た昭和30年代、国鉄は輸送力の増強、動力近代化に重点を置き、幹線の電化や車両のディーゼル化を推進していった(原田勝正『日本の国鉄』)。昭和36年10月、函館・旭川間にディーゼル車による北海道初の特急「おおぞら」が誕生、上野・札幌間がついに20時間を切り19時間55分で結ばれる(イカロス出版『名列車列伝シリーズ五 特急おおぞら』)。
 その後函館・網走間特急「おおとり」、函館・旭川間特急「北斗」などが運転を開始、昭和40年10月のダイヤ改正では連絡船に津軽丸型の新造船が投入され函館・青森間が4時間40分から3時間50分にスピードアップされた(『先駆−函館駅八十年の歩み−』)。
 本州・北海道間は特急リレーの時代となり、連絡船経由で道内各地へ向かう下り列車が早朝、午前、午後に発車し、本州連絡の3本柱体制が確立された(前掲『名列車列伝シリーズ五 特急おおぞら』)。「上野でカゼをひけば函館でクシャミをする」ほど函館は本州と密接な関係の駅となった(昭和50年2月8日付け「道新」)。

列車を降りて連絡船桟橋へ向かう人たち(昭和46年、大和俊行撮影)
 この頃の函館駅は列車がホームに着くたびに、客は少しでも良い席を確保するため桟橋へ向かって走りだす。連絡船に乗ると「今度の列車は座れるだろうか」と心配し、船が着くと、乗り継ぎ列車の席を確保するため一刻も早く下船しようとする(『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。
 青森でも同じ光景が見られた。特急列車からはき出された乗客たちが、重い荷物をかつぎ、両手にさげてひたすら走り階段をかけ登る。この函館、青森駅のホームの光景はじつに活気にあふれ独特のものがあった。
 昭和43年10月、東北本線は全線電化完成によりさらにスピードアップが計られた。その時の時刻表を見ると最速で札幌・上野間17時間20分、函館・上野間12時間40分で結ばれている。
 一方、この年政府により国鉄の財政再建が本格的に取り上げられた。資金の事情、財政状況が悪化し始め、追い打ちをかけてモータリゼーションの波と航空機輸送の普及があらわれはじめた(前掲『日本の国鉄』)。
 北海道・本州間の旅客輸送シェアは昭和40年で国鉄(青函航路)が83パーセント、航空は16パーセントたらずだったのに対し、昭和53年には航空が60パーセント、国鉄25パーセントと大逆転した(昭和55年7月14日付け「道新」)。昭和50年代はもはや長距離列車で旅をする時代ではなくなったのである。
 これを裏付けるように対本州輸送の要となってきた青函航路も旅客輸送人員が昭和48年の498万人をピークに減少の一途をたどり、昭和50年代には急激に減少していく(前掲『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。     
 昭和55年10月、北海道内の鉄道輸送体系に画期的な変化が起きた。千歳空港駅が開業し、何十年来の本州接続ダイヤから空の玄関千歳空港と直結する札幌中心の都市間輸送にダイヤ体系が見直されたのである。この改正は「函館にとって本道の玄関駅の返上を意味した」(昭和56年6月24日付き「道新」)。
 青函航路は上下4便が客扱いを中止、北海道の対本州連絡の表玄関だった同航路は昭和43年当時の水準に逆戻りし、本州旅客受け入れの主力を千歳空港駅に譲ることとなった(昭和55年9月27日付け「道新」)。
 函館発着の列車は函館発「おおぞら」が1往復削減、急行列車は大幅に廃止された。「このままでは函館も、稚内などのような行き止まり駅と同じになってしまう」と青函局幹部が心配したという。しかし、ダイヤ改正で削減された一部の列車利用者から不満は出たものの、ダイヤ改正について函館市民の反応はほとんどなかった(昭和55年7月4日付け「道新」)。
 昭和56年10月、道央と道東を短縮する石勝線が開業、ダイヤ改正が実施され、函館から札幌以遠の直通特急はさらに減った。列車削減の煽りで連絡船は接続が減り函館・青森を結ぶだけの「ローカル船」となってしまった。「連絡船と利用客との結びつきを国鉄自らが弱めるようなことをしている」という声が青函局内部でもあがった(昭和56年6月24日付け「道新」)。
 昭和61年11月、国鉄は分割民営化に備え最後のダイヤ改正を実施した。昭和36年誕生以来本州連絡特急として走り続けた「おおぞら」も函館・釧路間が廃止、函館から釧路への直通列車が完全に消えた。また、函館本線小樽経由で運転されていた函館・札幌間の特急「北海」も廃止され、函館から倶知安、小樽方面へは長万部、札幌乗り換えという不便なものとなった。

函館駅のホームに入った特急「おおとり」と「北海」(尾崎渉蔵)
 昭和62年4月1日、国鉄はJR7社に分割民営化された。翌年青函トンネル開業、青函連絡船が明治41年以来80年の歴史に幕を降ろした(コラム55参照)。そして最後に残っていた函館・網走間特急「おおとり」も消え、北海道内の特急は全列車が札幌起点となり函館から札幌以遠への列車は完全に姿を消した(前掲『名列車列伝シリーズ五 特急おおぞら』)。
 青函連絡船の存続問題は函館の街をあげて大きく取り上げられたが、昭和55年から始まった函館と道東、道北を結ぶ直通列車の削減・廃止はそれほど問題にはされなかった。「航空機の時代だから、やむを得ないでしょう」、「列車削減、初めて知りました。不便になるのは困りますが……」という程度だった(昭和55年12月19日付け「道新」)。
 函館から道東へは現在、小型機によるコミューター航空が運航されている。それなりに需要もあるという。しかし、直通列車はなく列車利用の場合、函館市民は南千歳、札幌駅で乗り換えて利用している。小樽行きの直通もなく、すべて乗り換えとなる。直通列車があればとの声もわずかだが聞かれる。(尾崎渉)
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