通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム) |
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第3章 転換期をむかえて コラム57 郊外型大手スーパーの登場 |
コラム57 郊外型大手スーパーの登場 第4の商店街の形成へ P885−P889 昭和52(1977)年11月、亀田地域の赤川通町に3年後のオープンを目指し長崎屋進出、との新聞報道があった(昭和52年11月8日付け「道新」)。長崎屋の進出は赤川通(現美原)地区が第4の商店街となる契機で、商業圏のさらなる分極化の始まりでもあった。昭和40年代までの函館の商店街といえば、十字街(末広町方面)、大門(松風町方面)、五稜郭(本町方面)の3地区であったが、丸井デパートの十字街から本町移転後は、五稜郭地区の台頭が著しくなった。これに追随するかのように、赤川通地区が新興商業地区として名乗りをあげるのが昭和40年代の後半である。亀田地域の商店数は大きく増え、年間販売額は昭和43年から49年では、6倍になった(昭和50年版『函館市統計書』)。亀田市と函館市との合併(昭和48年)や「産業道路」の整備もあって(第6編第2章第2節参照)、新たに商店や金融機関が進出してくるが、赤川通地区はその中心に位置していた。 産業道路と道道赤川函館線の交差点を中心に商店街が形成されたが、このあたりは1日1万台を超える自動車交通量があり、人口も旧函館市内からの移動により急増するなど、著しい地域変貌を生み出していた。この地区の今後の開発を見据えて亀田商工会会長が、客の誘引にはまず核となる店舗が欲しい、と大型店舗誘致に乗り気の発言をしていたのは、昭和50年6月のことであった。 この頃の函館市の小売業界は、既存の2大デパートが売場面積の増築でしのぎを削り、本州大手の西武デパート進出が決定する一方、業績不振にあえぐ地元スーパーの雄、ホリタが中央資本のダイエーと業務提携し、棒二デパート系列のボーニストアが営業網を拡大するなど、変動のまっただなかにあった。 このようなときに本州大手スーパー(大型量販店)の代表格ともいえる長崎屋(業界7位)の進出が表面化したのであった。「北海道新聞」が、「赤川通り、産業道路沿いの地域に数年前から大手流通資本の進出がうわさされている」と報じ(昭和52年8月20日付け)、用地確保前に関係者が亀田地域のデータ収集に市役所を訪れたというように(当時函館市職員談)、水面下では市場調査が進められていた。また流通業の第1線にいる人物が、大型店が進出するとすれば、駐車場スペースを確保できる郊外型の出店に限られ、亀田地域しかない、と語ってもいた(昭和51年12月10日付け「道新」)。
全国主要100都市のうち、本州大手スーパー7社がひとつも出店をしていなかったのは函館のみであった。地域に根ざした老舗の2大デパートがあって、外来資本の参入する余地はないと考えられてきたからだったが、風向きは変わり始めた(昭和55年7月31日付け「道新」)。 昭和53年7月、長崎屋の役員は亀田商工会と函館商工会議所を訪問し、公式に出店計画を伝えた。10月には、市内最大規模の棒二森屋デパートを上回る、1万8000平方メートルの売場面積の出店申請を札幌通産局に提出した。 長崎屋の出店については、赤川通商店振興会は総じて歓迎ムードだったが、函館地域の商業者には危機感が濃厚であった。函館商店街連合会が、西武についで長崎屋の進出となれば、函館の商圏は「超競合激化地帯に突入、地元の小売業者は手痛い打撃を受ける」、と声をあげたのはその現れであった(昭和53年8月25日付け「道新」)。 これに追い打ちをかけるように53年9月に、イトーヨーカ堂(業界3位)の赤川通町進出決定の報道がなされる(昭和53年9月29日付け「道新」)。地元スーパー建設の大型ビルのキーテナントとして入居し、売場面積2万5400平方メートルで、赤川通商店振興会の同意を得て12月には出店申請へと進んだ。 長崎屋出店問題は亀田商業活動調整協議会(以下亀田商調協と略)へと舞台が移された。造船不況による函館ドックの低迷や北洋漁業の衰退など地域経済の伸び悩みを背景に、出店規制を望む函館地域の商業者は全市的な視点での判断を求め、出店歓迎傾向の亀田地域との違いを露呈した。 亀田商調協の第1回審議を目前に、函館市は大型店舗出店対策協議会を組織して対応に乗り出し、函館商店街連合会は大型店進出反対総決起大会を開催した(昭和53年12月10日付け「道新」)。しかし同時期に、イトーヨーカ堂進出賛同者8万人もの署名が短期間に集まった事実は、消費者と商業者との間にギャップがあったことを示していた(同53年12月5日付け「道新」)。 昭和54年2月、大型店舗出店対策協議会は売場面積の適正規模に配慮を求めて規模縮小の答申を出し、結論を亀田商調協に委ねた。最終結論は申請時の売場面積の20パーセントから30パーセント削減となったものの、長崎屋、イトーヨーカ堂ともに1万4000平方メートルという規模であった。 これによって、西武デパート(開店は56年)を加えた大型店舗1平方メートルの支持人口が6人から3人へと減少し、昭和53年当時で520億円という既存大型店の売上額の奪い合いが激化することになった(昭和54年3月23日付け「道新」)。
本州大手3店の参入で小売業界の競争が厳しくなる一方、大門、五稜郭、赤川通と3極化した地域間での競争も開始された。既存の商店街も手をこまねいていたわけではなかった。 施設・設備の改装など、外来大型店の攻勢を迎え撃つ構えを取り始め、流通業界の近代化へと目を向けていった。「地理的な″閉鎖性″から″ぬるま湯″などにつかり続けてきた」、と酷評された市内の流通業界は試練の時代を迎えて、函館の商業地図は塗り変わろうとしていた(昭和55年8月28日付け「道新」)。(菅原繁昭)
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