通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 1県1紙への抵抗 |
1県1紙への抵抗 P972−P973 「新函館」が創刊した翌々月(昭和17年2月)には、前述のように新聞統制団体の日本新聞会が誕生し、情勢は1県1紙へと着実に進んでいた。約3年をかけて市内3紙が「新函館」へ統合された際、岡田健蔵は「合同新聞人の偏狭を嗤ふ」(市立函館図書館多與利」454)の中で、「その合併が非常時局に対する当然の帰結ではあるが、その将来に対しては多少の不安無きにしもあらずである。それは第二次の合併が予想され、例へば北海タイムス系が北海道地区を一丸として統一に乗出す前提なりとして伝へられて居ることである。所謂タイムス系の多年官界に結ばれた特殊関係が今後の動向如何に依って、何れ程までにその勢力を発揮するかと云ふことが問題であると市中に噂せられて居る」と、北タイが中心となって道内1紙に統合されるのではないかと道内新聞界の行き先を憂いていた。そして「内地の郡小府県と異り本道はその広さに於て四国九州台湾を合併した地域と匹敵するのであるから大いに考を是正すべき」であると、道内1紙への統合が他府県同様にはいかないことも訴えている。 また「新函館」の会長長谷川も、「一県一紙」の統合については同様に反対している。2月5日に東京で行われた日本新聞会創立での東条首相の「新聞紙論」に対し、4回にわたって連載した短評の中で、新聞統合について、「『一市一紙』といふが如きは適当であろう。『一県一紙』といふが如くは、地方自治の精神から亦首相の説くが如き、紙面のいよいよ溌刺性とますます夫々の特異性の溌刺とは望まれ難い。一県一紙といへば、そこには溌刺たらん、特異性を発揮せんとしても出来ぬやうになる。又夫、首相の言に結束を固くし努力と創意とあるが、新聞が一つになっては結束が無くなる。創意も無くなる。努力も無くなる。努力は何としても競争の気分『負けじ魂』が無くてはならない。而も之も昂じては害を生ずる。此も適正が必要。適正ある競争気分が必要である。何にしても一県一紙といふことは考へもの。殊に北海道に一新聞などは途方も無い無分別のことである」(17年2月5日付「新函館」)と、地方自治と新聞の創意を考えた時、1県1紙は問題であり、さらに北海道のように広いところで1紙は「途方もない無分別」だと東条首相の新聞紙論に堂々と反対している。 その長谷川淑夫(世民)が、1紙統合への最中、17年5月16日、東京(7年から在京)で亡くなった。病気静養中のことで、5月5日には、社宛てに、「一寸つらひ。しばらく世民生病気休筆」と掲げて欲しいという手紙が入っていたという(5月17日付同前)。明治35年来函して「北海」の主筆になって以来40年、函館の新聞界で活躍した長谷川は、その生涯を地方新聞の経営と地方新聞の論説に捧げた人物であり、市民の木鐸として中央の風を函館に吹き込み、地域の発展のためにその生涯を貫いた人物でもあった。函館の新聞人仲間にとっても、また函館の人たちにとっても、全道1紙へ動いていた時だけに長谷川の死はとても大きな損失だった。 |
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