通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 日刊紙を支えた函館の実業家 |
日刊紙を支えた函館の実業家 P956−P957 函日社の経営難は大正11年に頂点へ達した。社員の給料も遅れがちとなり、翌12年2月初めには、職工のストライキという事態を招き、遂に2月6日から8日まで4面紙の発行が不可能となった。
こうして、大正期の函館には、歴史と信用を持つ朝夕刊の函毎、長谷川淑夫という個性の強い主筆が筆を揮う夕刊の函新、新新聞運動を掲げる後発の夕刊函日、そして朝刊の北海と4紙の日刊紙が共存することとなった。そして各紙には資金面で支える実業家がいた。 函館には、明治11年の北海道最初の新聞である初代「函館新聞」の誕生以来、難事業といわれた新聞事業に対し、利益を度外視して発刊や経営危機に資金援助をしようという実業家がいた。彼らがいたからこそ、大正期、限られた購読者数の中で、4紙の日刊紙が共存できたのである。新聞の公共性を充分に理解し、資金は出すが口は余り出さないという太っ腹の実業家がこの時期の函館には存在し、彼らのような人物を生み出す経済基盤が、函館にはまだあったのである。後発の札幌や小樽の成長は函館に迫ってはいたが、開港以来培われてきた函館の経済基盤はまだ安定していた。 この時期札幌や小樽は1紙独占の状能にあった。その意味では、函館の4紙は規模の小さな小新聞に過ぎなかったかもしれない。しかし小新聞の寄り合いだから、他の新聞が出現する可能性があり、また自由な論争もできたのではないだろうか。しかし資本家に頼っている新聞事業のありかたはこの時期あたりまでで、時代は、新聞社が1つの企業として如何に独立し成長していくかを問うようになっていたのである。 |
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