通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 「函館日日新聞」創刊 |
「函館日日新聞」創刊 P952−P954
前述したように大正4年から毎年行われた選挙に関係し、地元函館の新聞は、報道紙の立場を忘れお互いの応援候補者を援護する言論紙的立場を取った。中には中傷し合う記事もあった。このような既刊紙の在り方に疑問を持ち、因習を打破し、「新」新聞紙の気運を助成するために誕生したのが函日だった。「新聞創刊に当りて」(4月5日付)には、「旧物を破壊して日新の研究に向かって進まん」とすることがその目的であり、「何等改むる事を知らざるものは落伍し、蹉趺する」だけであると記している。この時期、客観的な報道中心の新聞が切に望まれていたといえよう。 函日が登場した時、既刊紙のうち、函毎は唯一の朝夕刊8面の新聞として市内を席巻し、函新は夕刊ながら函毎の牙城に迫り、北海は朝刊として独自の境地を開いていたという。この中で「新新聞運動」の展開を試みようとした函日創刊時の幹部は、社主兼社長に白尾宏、主筆兼編集長林儀作、社会部長若原鎮吉、営業部長島田忠司、工場長石般繁太郎、印刷部長高野円平だった。主筆兼編集長の林は短評「呑吐嚢(ドントノー)」を担当、独特の筆で読者を楽しませた。「呑吐嚢」は「知りませんなり何事も知りません。但世間の事相を呑吐(どんと)する嚢(ふくろ)と解釈すれば当れり」とその意味を説明している。 東京支局(京橋木挽町)も開設したが経営は苦しかった。経営難に拍車をかけたのは、長引く第1次世界大戦(大正3〜8年)の影響による用紙不足だった。創刊にあたりようやく原紙を入手したが、その際3年間は発行部数を月3000部に限定されていた(函館日日新聞社『函日二十年誌』)。この創刊期の苦悩を3000号発刊記念(大正15年5月23日付)の中で次のように回顧している。「創刊当初に於て欧州大戦の影響は新聞紙供給難の大障害に正面衝突を為し、約三年間は全く栄養不良の状態に陥り、其の結果は即ち発育不良にして這般の経営難は万般の上に悲観の外は無かりしなり。…小資本力を以てして割合に多くの費用を要する新聞紙の経営に当りしことは、決して容易な問題に非ざりしなり。殊に欧州戦後の物価騰貴は『函館日日新聞』の生長に一大脅威を感ぜしめしこと勿論にて、回顧すれば能く今日の有るを得しことは実に奇跡と為さざるべからず」と。 |
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