通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 多数の小新聞 |
多数の小新聞 P960−P961 函毎の値下げが函館の新聞界に与えた影響は大きかった。この値下げで本当に市民は得をしたのだろうか。この時期になると新聞社はニュースを早く正確に伝えるだけではなく、出版、視察旅行、音楽会や美術展の開催など社会公共事業も主催・共催している。各社に経営面でのゆとりがあればこそできる事業である。社史や『函館市誌』(昭和10年刊)などの出版物を出したのは函日社だけだったことも、経営面でのゆとりに関係していたのではないだろうか。函日の太刀川社長はある席上で、函館の日刊紙が、札樽の新聞とは「遺憾乍ら大関と幕下の観なき能わずである」(『趣味の函館』昭和2年3月刊)と函館新聞界の脆弱さを嘆き、札樽の新聞の進出を恐れていた。
昭和4年同志社大学予科を出て故郷函館へ戻り、失業者や未就業者が巷に氾濫しているいわゆる不況のどん底で、職業紹介所の門を叩き、函館民報(社主菅原源、松風町)に勤務することになった西村芳太郎は、そこでの新聞作りを「主として函館新聞の記事を切り抜いてこれをザラ紙に貼って行く。そして見出しだけを変えるのである。これを少し離れたところにある工場へ…二時間余もたてばドタンバタンと平版印刷機にかけられて刷られて行く。題号は無論『函館民報』…ノリとハサミで作られる新聞」(「ある新聞記者の一生」『海峡』67所収)であったと回想している。そして「音羽町にバラックながら新社屋を建てた。小型輪転機を据付(職工たちに機械の知識がないので函新の専門家の手助けを借りて)どうやら刷り出した時の嬉しさ」と、家内工業的な小さな新聞社の実態を伝えている。 これらの小新聞は、これ以降はじまる言論統制のなかで、いち早く抹殺されていったのである。 |
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