通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

7 マスメディアの隆盛と新聞人

大火後の各紙

「函館新聞」誕生

新聞人の団結

選挙と新聞

「函館日日新聞」創刊

各紙の値上げ

各社新聞人の動向

日刊紙を支えた函館の実業家

函毎創刊50年

函毎の「破壊的」値下げ

多数の小新聞

社長引退と函毎の混迷

水電問題と新聞

「函館タイムス」の創刊

市中の新聞購読傾向

佐藤勘三郎と函日

函毎の廃刊

戦時体制下の新聞

「新函館」の誕生

1県1紙への抵抗

「北海道新聞」への統合

函毎の廃刊   P969

 大正12年の関東大震災以降、会社の譲渡、復権そして大火による罹災と種々困難と戦いながらも、歴史ある経営を維持しようとしてきた函毎の佐藤精だったが、経済的破綻と時勢には抗しきれず、昭和11年5月1日、函毎の権利一切を厚谷厚に譲り、自らは執筆のみに携わることとなった(5月1日付「函毎」)。
 しかし函毎(元町20)を譲り受けた厚谷も、その翌月から社員の俸給に追われる始末で、わずか数か月で手を引き、「株式会社函館毎日新聞社を組織」し、その「創立責任者岡本正一氏に一切の権利を昭和十一年八月一日より譲渡」した(8月4日付同前)。なお5月1日で佐藤が社長をおりた後も、発行人である橋本尚一は函毎を臨時発行し続け、一時期函毎は2つあるともいわれたが、岡本の就任によりこの問題も解決した(11年8月6日付同前)。
 今度こそはという期待があったが、赤字の累積と旧体制はどうすることもできなかった。12年3月に入り朝刊の休刊が続き、3月5日の紙上に「お詫とお願い」が掲載された。そこには「心気の転換と協力に依つて紙面の刷新と画期的発展を企図」したが、どうしても「旧態」を抜け切れず、月々多額の赤字は遂に経済的の行き詰まりとなり、2月28日「改革案」を総社員に提示、結果は「総社員の同盟退社」となり、1日付け朝刊よりまたしても休刊、「本日旧社員との交渉を打切、残留社員と市内各方面の応援により、兎も角、本日本紙の発行を見るに至」った経過が説明されていた。どのような改革案を提示したかには触れていないが、歴史が古いだけにその体質の改善は大変だったのだろう。
 「同盟退社」した職員を全員復帰させることはできず、職員にはまともに給料が払えず、「ラジオを聴いて号外を出すなど全く惨めな昨今、秋頃までどうかと思う」(「新聞のシンプン」『ミス北日本』昭和12年9月5日号所収)と見られていたが、結局北海道で最古の新聞函毎は、昭和12年10月10日で廃刊となった。
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