通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

7 マスメディアの隆盛と新聞人

大火後の各紙

「函館新聞」誕生

新聞人の団結

選挙と新聞

「函館日日新聞」創刊

各紙の値上げ

各社新聞人の動向

日刊紙を支えた函館の実業家

函毎創刊50年

函毎の「破壊的」値下げ

多数の小新聞

社長引退と函毎の混迷

水電問題と新聞

「函館タイムス」の創刊

市中の新聞購読傾向

佐藤勘三郎と函日

函毎の廃刊

戦時体制下の新聞

「新函館」の誕生

1県1紙への抵抗

「北海道新聞」への統合

各社新聞人の動向   P955−P956

 函日は大正8年初春、函新を辞めて東京にいた斉藤虎之助(衣川)を編集長に迎えた。一方函毎では、「函館操觚界の長老」といわれた主筆の工藤忠平が大正7年11月死去した(46歳)。工藤は明治32年に函毎に入社し主筆となった(11月25日〜29日付「函毎」)。その傍ら図書館の開設に尽力し、北門倶楽部の幹事としても活動していた。工藤の死後、工藤の世話で函毎に入社した3面記事担当の千葉稲城が編集長を兼務していたが、大正10年3月、元新小樽新聞主筆加藤米司(眠柳)を主筆に招へいした。加藤は読売、朝日、中央などで執筆をし、明治41年小樽新聞に入社、社会部長となり、大正8年に新小樽新聞を興し主筆を勤めてた人物である。この時期は、新聞が政治部や社会部の組織を確立しはじめた頃で、函館の新聞界でも、大正9年以降になると政治経済部長(大半は編集長が兼務)、社会部長の肩書きが出てくる。加藤の入社は函毎にとって頼もしいことだったが、就任半年足らずの同年11月急逝した(10年11月25日付「函毎」)。
 函日も創刊以来社会部長として雅趣に富み、人情の機微に徹する3面記事を書き続けていた若原鎮吉が大正10年6月病に倒れていた(前出『函日二十年誌』)。さらに函日では、創刊号から関係していた最古参の林儀作と島田忠司が、大正15年退社した。林の退社は、彼の政治的活動(大正11年市会議員に初立候補し落選、同13年道議会議員に当選)が、函日社創立宣言の「不偏不党、厳正公平」と相容れなかったためだった。一方永年営業部長を務めた島田は退社後、日刊紙「北日本新聞」を創刊、主宰し、昭和10年からは雑誌『ミス北日本』を出版し「新聞のシンブン」で地元新聞界の情報を連載している。
 またこの時期函日には、竹中(旧姓奈良)倭文子という女性記者が登場する。大正10年函館時事新聞社に入社、その後函日に移籍し、記者生命の短い女性記者の中で、大正から昭和初期の函館の新聞界で活躍した女性である。

竹中倭文子(『ニコニコクラブ』)
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