通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 水電問題と新聞 |
水電問題と新聞 P964−P965 函毎が経営者の交替を繰り返していた時、函館市の水電買収交渉に端を発した水電問題(第2章第2節参照)は、市中を水電派と市長派のふたつに分け、市民を巻き込む大きな問題となっていた。両派の対立は昭和8年に入ると急激に悪化、市中の電気はランプに変わり、商工業は萎縮するなど、函館市は「暗黒景気に呻吟する状態」(前出『函日二十年誌』)となった。函日は、社長の太刀川が水電会社の重役の職にあったため苦しい立場に立たされ、発行部数の減少、広告料の減収など新聞事業への影響は大きなものがあった。一方市長派に立つ函毎は、8年12月に入ると電力・電灯の送電が止められ、発動機を急遽設置してその場をしのぐなど、新聞の機能を充分に果たすことができなくなってしまった。このような水電の直接行動に対し、函毎は「市民の犠牲となり本社遂ひに断線さる」と7日付けのトップで扱ったのをはじめ、短評で「本社は終始一貫市民の総意を遵守し市民の絶対味方として」闘っていると強調し、「全市民の決起を促す」と市民運動の一層の高まりを扇動した(12月7日付「函毎」)。 しかし第三者の立場で、あくまで「公平なる報道と素直なる言論」(12月9日付「函新」)に立脚した報道を続けようという函新は、函毎の断線については同情しながらも、函毎の新聞としての在り方について短評(同前)の中で反省を求めている。函毎は「水電打倒の言論の為めに怨恨を水電会社に買った」結果の断線だと大いに「デモンストレーション」したが、滞納者のひとりであったからの断線であると事実を押さえた上で、新聞は「世間が騒がしき時に際しては、冷静で沈着で騒ぎを増大せしめざるよう重厚」でなければならないと戒める。また水電に対しては、「新聞社などの断線は殊に迷惑」し、そのために「逆宣伝」をされることは予想されることなので、「大抵の所は寛容に」すべきではないか、そして「我等新聞が社会の公器と認められている」からは、接線をしてその活動を通常に戻すようにと勧告する。さらに市民に対しては、新聞が「市民運動に没入して邁進敢えて辞せざることあると同時に、市民運動に就て言わんと欲するあらば言わしむべく、読者大衆の寛大にして大市民的態度であらんことを望む」と、反対の立場に立つ新聞の意見も聞く耳を持つことを勧めるなど、三者それぞれへ冷静な提言をしている。市民運動を扇動する新聞の在り方が大いに問われたこの水電問題も、翌9年3月、市と水電会社の間に停戦協定が成立して一段落する。結局これらの運動の中で、函毎は、電気料金も払えない経営の悪化と言論で市民運動を扇動できなかった新聞としての体質の低下を暴露してしまった。 なおこの間題の最中、昭和8年8月、明治22年から改題しながらも続いていた北海は、廃刊となった(前出『函日二十年誌』)。宮島鎗八の後を綿引綱が継ぎ、大正14年には営業部長の野村五作が引き継いでいた。この北海の発刊号数を引き継ぎ、8月31日函日社を退社した主筆の斉藤虎之助(衣川)は、大函館社を創立して朝刊「大函館」を創刊したが、これも2か月で廃刊となり、斉藤は、同年11月、再び函日に、客員として入社している(同前)。 |
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