通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 函毎創刊50年 |
函毎創刊50年 P957−P959 大正12年9月の関東大震災は報道機関に壊滅的な打撃を与えた。そして報道自体への影響以上に函館の新聞界に大きな影響を与えたのは、読者市場の破壊と広告収入の途絶だった。特にその歴史と実績により東京方面の業者に絶対的信頼を得ていた函毎の痛手は大きかった。表2−212は、函毎と函新の大正10年から昭和2年までの各年の広告総行数を表したものである。新聞体裁(紙面数、段数)が近い函毎と函新の2紙の比較だが、その内訳をみると、函毎は、6割以上が東京や大阪方面の業者の広告で、特に震災以前の東京方面の広告行数は4割5分も占めていたことがわかる。広告行数が多いだけ震災による被害も大きく、この収入減が尾を引き、函毎は経営難に陥っていく。
前途に不安を抱えながらも、函毎は昭和3年5月、創刊満50年を迎えた。なぜ経営至難な新聞事業を半世紀も継続できたのか。その理由を函毎自身は次のように分析している。「其第一に数うべきは、組織変更の前後とも、出資者は、出資に対する利益を顧みなかつたことである。新聞も無論営利事業として経営しなければならないが、出資者は営利観念を放れて、全く社会的奉仕の精神を以て事に当つた…。加うるに実業界方面に着目したるために、実業界に深き印象を与え、紙上親友の次第に増加したのは、他に追従を許さぬ本社の強味である」(5月7日付「函毎」)と。そして経営者が代わっても他へ委譲することがなかったので、終始一貫「穏健着実主義」に基づいて経営ができたともいう。 50年を迎えた函毎の歴代社長は、渡辺熊四郎、伊藤鋳之助、平田文右衛門、吉岡憲そして金沢彦作である。歴代主筆は佐久間健寿、野村康直、山本忠礼、岡野敬胤、出戸栄松、真島武市、上島長久、斉藤和太郎、川合信水、久津見蕨村、工藤忠平、加藤米司であった。 |
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