通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

7 マスメディアの隆盛と新聞人

大火後の各紙

「函館新聞」誕生

新聞人の団結

選挙と新聞

「函館日日新聞」創刊

各紙の値上げ

各社新聞人の動向

日刊紙を支えた函館の実業家

函毎創刊50年

函毎の「破壊的」値下げ

多数の小新聞

社長引退と函毎の混迷

水電問題と新聞

「函館タイムス」の創刊

市中の新聞購読傾向

佐藤勘三郎と函日

函毎の廃刊

戦時体制下の新聞

「新函館」の誕生

1県1紙への抵抗

「北海道新聞」への統合

「新函館」の誕生   P970−P972

 函館では昭和6年から12、3年代にかけ恐喝問題や大火などにより小新聞はほぼ整理され、この時期日刊紙としては函新、函日、函タイの3紙が残っていた。函日の太刀川善吉が、生前、弱小な新聞が身内で争っているうちに札幌や小樽の新聞に乗っ取られると心配していたように、函館の地元紙は発行部数、資本などからいってまさに弱小紙という存在だった。大火を契機に進出して来た北タイは、その後旭川、室蘭へも進出し、樽新も地崎宇三郎が社長になって積極的な経営をするようになっていた。そのような中での1県1紙への新聞統合の動きである。札幌や小樽と対等な位置で統合されるためにも、函館の新聞は基盤を強固なものにしなければならなかった。
 函新の長谷川社長も、「新聞は多きに失す、須らく一市一紙たるべし、一市とは市の外廓を包含する、函館にすれば、道南地方を抱擁するので、道南に一新聞あれば足りる」(15年8月6日付「函新」)と、再三市内の新聞の統合を主張していた。これら地元の意見や国策を背景に、函館でも14年から自衛のための合同への折衝が始まった。3社それぞれの思惑があり話し合いはなかなか進まなかったが、16年の春、政府当局の希望斡旋もあって交渉は漸く具体化し、同年秋に3社の統合が決まり、16年11月26日、新会社「株式会社新函館」が創立した(11月30日付「函日」)。
 なお函日では「政府当局よりの希望斡旋」と書いているが、『北海道新聞四十年史』には、「北海タイムスの支社長で函館タイムスを主宰していた菊地吉治郎が各紙幹部の説得に駆け回り、容易に合意が得られないと見るや特高警察力をかりて強引に合同を進めた」と記されている。この時期、新聞社には常に特高警察が詰めて掲載記事のチェックをしていたという。特高介入は希望斡旋と言葉が置き換えられて当然なのだろう。また統合にあたって北タイが強力に動いていたということは、当時の新聞社の力関係からも納得のいくことである。

「新函館」創刊
 新たに創立した新函館新聞社の合併比率は、函新4、函日3、函タイ3だった(「合同新聞人の偏狭を嗤ふ」『市立函館図書館多與利』454)。体制は次のとおりである(「北海道新聞社資料」)。取締役会長長谷川淑夫(元函新社長)、取締役社長原忠雄(元平出漁業勤務)、取締役副社長佐藤勘三郎(元函日社長)、専務取締役菊地吉治郎(元函タイ社長)、取締役東季彦・太刀川善平、監査役平出逸郎、総務局参事森義武(元函新編集長)・佐藤精(元函日編集長)、編集局長滝野幸逸(元函新)、第一報道部長西田芳太郎(元函タイ)、第二報道部長松崎恵(元函日)、文化部長小原作太郎(元函タイ)、地方部長丸山貞吉(元函タイ)、業務局長北条進、工務局長斉藤徳義、札幌支社長斉藤虎之助、東京支社長本間隆、大阪支局長石原健蔵、室蘭支局長畑井進吾。本社は元函館新聞の社屋(末広町83)を使用した。
 昭和16年12月1日創刊号が発刊された。紙面の体裁は、朝刊4面・夕刊2面、1面15段。購読料は1か月1円20銭。「一切新規」「号も追はず、名も襲はず、斬新といふ建前の下」に「新函館」を発刊すると「創刊の辞」にある。
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