「函館市史」トップ(総目次)
第2章 20万都市への飛躍とその現実
第7節 都市の生活と新しい文化
7 マスメディアの隆盛と新聞人
大火後の各紙
「函館新聞」誕生
新聞人の団結
選挙と新聞
「函館日日新聞」創刊
各紙の値上げ
各社新聞人の動向
日刊紙を支えた函館の実業家
函毎創刊50年
函毎の「破壊的」値下げ
多数の小新聞
社長引退と函毎の混迷
水電問題と新聞
「函館タイムス」の創刊
市中の新聞購読傾向
佐藤勘三郎と函日
函毎の廃刊
戦時体制下の新聞
「新函館」の誕生
1県1紙への抵抗
「北海道新聞」への統合
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佐藤勘三郎と函日 P967−P969
昭和10年1月20日、元函日の林儀作が東京で急死(享年53歳)。翌11年2月4日には、函日の社長太刀川善吉が東京で亡くなった(享年53歳)。後任社長には嗣子善平の英断により、副社長の佐藤勘三郎(大正13年入社)が昇任することになった(3月26日付「函日」)。
組合員関係者がいなくなった函毎、平出の手を離れた函新、そして太刀川の手を離れた函日と、この時期、函館の新聞界も実業家の保護から離れ、企業として独立して動き出したといえるだろう。″時局頗る多事多端″の中、新聞の使命はいよいよ重大となっていた。中央での通信機関の統制が始まり、全国の小新聞も大資本下に統制されつつあった。地方の新聞はより基盤を確実なものにしていかなければならない状況になっていたのである。
佐藤勘三郎(『函館名士録』) |
譲渡が済むと函日の佐藤新社長は社屋新築(鶴岡町1)に着手、11年7月13日には延べ坪186坪余、和洋折衷式の簡素な新社屋が完成し移転した(前出『函日二十年誌』)。社の体制面での刷新も図り、元函毎社長の岡田次雄(天洞)を社賓に招へいしたのをはじめ、元「大函館新聞」社長の斉藤虎之助(衣川)、元「新聞の新聞」社長岡川梅吉(呑風)、元「渡島新聞」社長円山貞吉それに「事業と人」社長の茶碗谷徳次らと敏腕家を揃えた。岡川梅吉は大正10年頃小樽から来函し、小新聞「新聞の新聞」を発刊したが、行き過ぎた筆誅が名誉毀損・恐喝として処断され廃刊となった。函日に入社後は別人のように世慣れた生活態度で筆を揮ったという(常野知哉 「函館物故記者列伝」『海峡』91所収)。一方円山貞吉は佐渡の人。円山の祖父は佐渡の陽明学の大家で、函新の長谷川や函日の林が門下生だった。円山が彼らの跡を追って函館に来たのは、大正6年頃で、綿引が社長をしていた北海に入社、渡島檜山管内ではかなり人望のあった人だったという(同前、83所収)。続いて昭和13年4月には函毎の元編集局長佐藤精が編集局長代理として入社、朝刊に「大観小筆」欄を新設し、斉藤衣川(「不戯論」担当)が退社(8月25日)後は、主筆として「去載語」を執筆した(前出『函日二十年誌』)。また紙面も刷新し、昭和12年9月6ポ7の新母型を購入して新活字の鋳造を開始、翌10月15日の夕刊紙上から14段制(1行15字詰め、1段163行)を実施した。
日中戦争以降の新聞業界の不振の声を聞く中、函日は昭和13年4月創立20周年を迎えた。
一方、14年12月、函新が社屋を仮住まいから末広町83へ移した。移転を伝える「社告」(12月2日付)には、大火類焼後仮建築のまま今日まできたが、本建築は「時局の統制下遂行致し難」い状況下、「末広町のメイン・ストリートに恰好なる不燃質建物」があったので、それに「新築的改造を大成」し移転するという経過が書かれている。 |