通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

7 マスメディアの隆盛と新聞人

大火後の各紙

「函館新聞」誕生

新聞人の団結

選挙と新聞

「函館日日新聞」創刊

各紙の値上げ

各社新聞人の動向

日刊紙を支えた函館の実業家

函毎創刊50年

函毎の「破壊的」値下げ

多数の小新聞

社長引退と函毎の混迷

水電問題と新聞

「函館タイムス」の創刊

市中の新聞購読傾向

佐藤勘三郎と函日

函毎の廃刊

戦時体制下の新聞

「新函館」の誕生

1県1紙への抵抗

「北海道新聞」への統合

大火後の各紙   P945−P946

 明治30年代、函館毎日新聞(以下函毎と略す)、函館日日新聞(大正7年以降の函館日日新聞とは別)、北海新聞、函館新聞(明治45年以降の函館新聞とは別)の4紙が論陣をはっていたが、同40(1907)年8月の大火罹災後に復刊したのは、函館毎日新聞、函館日日新聞、北海新聞の3紙だった。
 全てを烏有に帰しながらも大火後いち早く体制を整えた函毎は、同44年、輪転機を購入し社業の拡張を図った。この頃一部の人たちのための言論新聞からより幅広い情報を伝える報道新聞に変わりはじめた新聞各社は、日露戦争以降発行量の競争となり、多くの新聞社が、普及し始めていた輪転械を取り付けた。道内では40年にまず北海タイムス(以下北タイと略す)が、続いて小樽新聞(以下樽新と略す)が輪転機を購入し、函毎は遅れて44年に購入した。この時の函毎(富岡町5)の体制は、社長吉岡憲、主筆工藤忠平、広告主任鈴木啓三、販売主任和田善三郎で、新聞体裁は、1頁8段(1行19字詰、1段105行)の6面紙で、大祭翌日休刊となっている(『新聞総覧』)。
 一方罹災により規模を縮小していた函館日日新聞は、42年に本社改築に着手(6月18日付「函日」)、44年9月、東浜町の仮住まいから地蔵町11、12の新社屋に移転した(9月14日付同前)。その後輪転機を購入し、11月8日からは朝夕刊(8頁、1か月30銭)を発刊した。この函館日日新聞の一新に対抗し函毎は44年10月15日から6面を8面へと増やした(10月11日付「函毎」)。しかし朝夕刊を継続して発刊することは大変なことで、1か月後には夕刊のみの新聞となった(12月7日付「函日」)。この間の函館日日新聞社の体制は次のとおりである。大火以前は社主小橋栄太郎、主筆斉藤哲郎(大硯、小橋の娘婿)(明治40年『最新函館案内』)だったが、その後函館支庁に勤務していた熊谷栄吉が社主兼主筆となった。熊谷は42年9月死去、体制を刷新して44年11月からは社長小橋栄太郎、副社長斉藤哲郎、主筆武田源次郎、理事兼会計主任中嶋統一郎となった(11月9日付「函日」)。
 北海新聞社は、大火以前は宮島鎗八が主幹で青木清治郎が主筆を務めていた(前掲『最新函館案内』)が、大火後は、函館区役所の吏員を辞めた長谷川淑夫が社主・主筆となった。長谷川は佐渡金座の役人の子で、東京大学卒業後、中学校教員を経て東京で政治雑誌「王道」を発刊していた。35年、34歳で函館郡部選出衆議院議員選挙応援のため来函し、そのまま北海新聞で執筆、39年に区役所に入所、翌40年辞して北海新聞社の社主となった(『北海道人名辞書』大正3年刊)。この長谷川が執筆した記事「昔の女今の女」が新聞紙法に触れ、44年2月24日、北海新聞は発行禁止となった。長谷川は処分に服さず3月7日、新たに「北海」(編集兼発行人林儀作、社主長谷川淑夫)を発刊し、3月19日まで発刊を継続した(3月30日付「函毎」)ため、責任を問われて入監、北海新聞も北海も発行禁止となった。前の持ち主の宮島は、44年5月、新たに北海新報社の設立届を出した。
 長谷川と共に刑を科せられた林儀作は、長谷川と同郷で、大火後来函、長谷川の招きで北海に入社したが、42年7月、「或る方向を転換し」(7月24日付「函日」)て函館日日新聞社に入社していた。
 長谷川らが違反した「新聞紙法」(法律第41号)は、「新聞紙条例」を廃して42年5月5日に公布されたもので、日露戦争後のインフレによる労働争議の増加や社会主義運動の隆盛により、言論統制が強まり登場したものだった。内容的には、発行保証金の倍額引き上げ、行政処分による発行禁止や停止条項の復活など、以前の「新聞紙条例」を改悪したものといわれた。この後新聞関係者は、「新聞紙法」の改正を求めて繰り返し議会に改正案を提出したが、そのつど否決され、敗戦まで言論界はこの悪法に支配されることとなった。
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