通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 市中の新聞購読傾向 |
市中の新聞購読傾向 P966−P967 昭和10年、東京の藤田剛志(人物の詳細は不明)は広告市場の調査をした。藤田は、「人口の点からも商工業の上からも北海道の代表都市で従って其処の成績は大体に於て道内の動向を知ることが出来る」として函館を北海道での調査対象都市に選んだ(広告研究所『函館広告市場調査報告書』昭和10年6月10日発行)。調査内容は、(A)家庭で購読している新聞名、(B)雑誌名、(C)使用している石鹸名など10項目。調査対象となったのは市内中学校(商業、中学、高女、聖保祿、遺愛、大妻)の男女生徒4014人、ほかに生徒数は明記されていないが、大谷、工業を合わせ計8校、4500人近い生徒数にのぼっている。この時期の市中戸数は約3万9200戸(『函館市史』統計史料編)であるから、ほぼ1割の家庭の傾向がわかることになる。また中等教育機関に子弟を通学させていることは、ある程度の生活水準に達している家庭の傾向とみなせるだろう。表2−214は(A)の購読新聞名で、一番読まれているのはどの学校でも函新、2位は遺愛以外は函日である。水電問題にみられたように函毎が新開としての役割を弱めてきていたことを考えると当然の結果といえるだろう。また購読者総数が生徒数のほぼ倍に近いのは、2紙の購読家庭が多いということであろう。それも、函日と東京2紙の合計が、1位の函新の数とほぼ一致するので、まず函新、2紙目として函日か東京紙のいずれかを読む家庭が多かったと思われる。 東京紙が多いのは、函館は民間企業の支社、支店をはじめ、国の出先機関が多く転勤族が多かったことや、商売の関係で中央の動向を知りたい人、あるいは商売のために東京にも居を構えている人が多かったことなどによるものと思われる。
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