通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 函毎の「破壊的」値下げ |
函毎の「破壊的」値下げ P959−P960 昭和初期の新聞各社は、増加する報道内容と読者の受容に応じるために色々な経営努力をした。写真の電送や超高速印刷機の導入など設備投資の時代に入っていった。道内では、樽新が昭和2年にドイツ製の高速輪転機を設置し、同6年には北タイがタイムス式電光高速度輪転機を開発している。函館では後発の函日が昭和3年11月、活字鋳造部を新設して最新7ポイントのカスチング(活字鋳造機)を購入、翌4年3月11日の紙上から7ポイント活字(従来は8ポイント半)を採用した。これは本道新聞業界における7ポイント活字採用の嚆矢だった。この7ポイント活字の採用により、紙面構成が1段16字詰94行12段と変更になった。さらに函日は、翌5年1月1日の初刷りから13段制(中央では3年に大阪系の4紙が切り替えたのが最初)へと移行した。これにより掲載報道の量も増え、広告にともなう収入も増加することになった。函日が13段制へ移行した時、道内で13段制を採用していたのは北タイのみだった。しかしこのような函日の努力にもかかわらず、東京・大阪方面の広告主の函毎に対する信頼は変えることができず、依然歴史の古い新聞を過大評価する傾向があったという。そのため函日は、東京・大阪地方の広告主を説得し、その認識是正に努力を続けなければならなかった。一方中央の広告主に絶対的な信頼関係がある函毎だったが、関東大震災以後の回復にてまどっていた。大正14年12月には朝夕刊の独占場だったところに函新が月額70銭という安値で割り込み、今また後発の函日が全道初の7ポイント活字を採用し13段制を実施した(函新の13段制は昭和5年12月20日夕刊から)。この2紙の動きに対し遅れを取り戻そうとした函毎は、昭和6年3月から一挙30銭の値下げを断行(3月8日付「函毎」)し、その年の5月には13段制も採用した。この値下げはまさに「破壊的行為」だったが、競争相手の函新も、4月から「犠牲的奉仕」で1か月60銭を実施した(3月8日付「函新」)。この時函新は、新聞は「社会の耳目」とか「木鐸」とかといわれるが、「唯安く踏み倒させる斗りが社会民衆の誇りではありますまい」と、読者の有り様についても訴えている。 この年(昭和6年)10月13日、函新オーナーの平出が亡くなった。享年56歳。前年の総選挙で落選、晩年の一大飛躍を試みようとした太洋漁業も不振という「公生活、近年頗る振はず」(10月17日付同前)という状態での他界だった。新聞経営については、買収の際には出資したが、その後の経営などについては、他の新聞社のオーナーがそうであるように、全く長谷川の独立経営といってよいほど関与することがなかった。長谷川も「君と共に越し、爾来余の独立経営にて今日の存在的地位を占むるを得るに至りたるは余の深く感謝する所」と平出のオーナーの在り方に感謝している。この後函新は、名実ともに長谷川が社主兼社長となった。 |
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |