通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 7 マスメディアの隆盛と新聞人 「函館タイムス」の創刊 |
「函館タイムス」の創刊 P965−P967 水電問題の停戦協定が成立した同じ9年3月の21日、函館は未曽有の大火にみまわれ、函日(蓬莱町15、大正12年8月社屋竣工)、函毎(鶴岡町1、昭和7年12月社屋竣工)、函新(地蔵町11、12)の社屋はともに類焼してしまった。各社は焼失を免れた印刷所や青森の東奥日報社などへ印刷を依頼、1日も早い復刊に努力した。函日社は4月25日から函館で本格的4面紙の発刊を開始し、7月には活字鋳造部を復活、新活字を採用して紙面の刷新をした。また函新は、社長長谷川の長男海太郎(作家、第2章第7節5参照)が資金面で全面的に援助をし(「長谷川家の人々と函館」『地域史研究はこだて』25)、地蔵町14、15に仮建築ながら社屋を建て、5月から復刊することができた(4月28日付「函新」)。函毎も元町20に社屋を建て復刊した。この混乱の中また新しい日刊紙が誕生している。「北海タイムス函館版」(夕刊、2面)である。北タイは、市民の「新聞紙の復旧刊行を渇望する事極めて深刻」として、函館支局内に印刷の設備を整え、従来不定期刊行だった「北海タイムス函館版」を日刊に改め、とりあえず本紙購読者への無料配付から始めた(4月3日付「北タイ」)。復旧がはやかった函日でも、函館で印刷ができるようになったのは4月25日からなので、4月早々に印刷が可能となった北タイ函館版は、被災した既刊3紙にとっては気になる存在だった。一方函館への進出を考えていた母紙北タイにとっては、願ってもない機会となったといえるだろう。函館版は、同年12月1日「函館タイムス」と改題し、4面の夕刊として母紙の北タイから独立した。夕刊として出発したのは、函館が「依然として夕刊主読の傾向顕著にして、現に地元広告は総て夕刊本位に在」(昭和16年『新聞総覧』)るからと、函館の夕刊主流の現状に沿ったものであったことを記している。 この北タイの進出に対抗し、6面の夕刊(50銭)だった函日は、10年1月5日から8面の朝夕刊になった(9年12月20日付「函日」)。購読料は読者の負担を加重しないようにと60銭だった。函新、函毎も9年中には4面から6面、そして従来の8面朝夕刊紙(70銭)へともどっている。 |
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