通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ アメリカ軍の上陸と駐屯施設 |
アメリカ軍の上陸と駐屯施設 P53−P55 さて、アメリカ軍進駐の具体的な状況は、「バーネル少将麾下 六千名到着 平穏裡に快速の進駐」の見出しで翌10月5日付けの「北海道新聞」に報じられた。「本道進駐米陸軍第一陣−バーネル少将麾下第八軍第九軍団第七十七師六千名は予定の如く十月四日海路函館に到着、午前十時海岸町第二定温倉庫岸壁からH・H三〇六歩兵隊を先頭に上陸を開始、トラックに分乗してそれぞれ宿舎に向つた。一方東浜岸壁から機械重量物を揚陸したが、バーネル司令官は幕僚とともに司令部たる相生町五島軒に入つた」。 この記事に続き、「軽快な武装 戦勝者の驕り微塵なし」の見出しでより具体的にアメリカ軍上陸の様子が述べられている。 四日午前十時、上陸地点の海岸町定温倉庫岸壁前に上陸用舟艇が陸上信号兵の敏捷な合図によつて次次と接岸する。米兵は軽さうな小銃、深い鉄兜、大きなズツク一個といふ軽快な武装に身を固め碧眼を輝せながら本道上陸の第一歩を印した。兵員、軍需資材に交つて例のジープが軽快な音をたててその姿を現せば、待構へてゐた連絡将校が颯爽と飛び乗つてそのまま宿所の検分に出動する。接岸地点は最初一ヶ所の予定であつたが、舟艇から揚陸したブルトーザー(地均し機械)二台を動員して岸壁北側の浅瀬の地均し工事を開始し僅か一時間で完了、二ヶ所から上陸するスピーデーぶりである。上陸した兵士達の集合も、集合点呼の命令などなく、各自が舟艇から身軽に飛び降りて物資集積所に素早く集るところなど少しも形式にとらはれず気持ちがいい。チウインガムをかみ、煙草をふかせて宿所への出発を待つ兵士達の姿には戦勝者の驕つた態度は微塵もなく、軍服の右肩に刺繍された自由の女神≠ェ象徴するやうな親しさを感じさせられる。十時五十分頃、司令官バーネル少将が丸腰のまま舟艇から飛び降りるとそのまま兵士達の集合場所へ歩を運んで輸送指揮に当たり、米軍の進駐は万事スピーデーに終始、夥しい兵員は予て手配されていたトラツクに分乗してそれぞれ分宿所へ向つた。
上陸したアメリカ軍は、司令部を五島軒に置き、三〇六部隊が函館水産専門学校、三〇四部隊が旧七一部隊跡、衛生担架隊が旧津軽要塞司令部、司令部付憲兵隊が丸井デパート、移動病院が共愛会館をそれぞれ使用した(北海道立文書館蔵「昭和二十年長官事務引継書」)。この時上陸したアメリカ軍の総兵力は、必ずしも明らかではない。前記の「北海道新聞」見出しは、「六千名到着」と述べているが、前掲「長官事務引継書」は、10月30日現在、道内に2万1630名、函館には4297名という数字をあげている。また、日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』によれば、4日当日、アメリカ海軍の艦船から6160名が上陸し、後日青函連絡船によって600名が函館入りしたとされるがその資料的根拠は不明である。 翌21年1月26日現在、函館駐屯のアメリカ軍は5120名であり、その駐屯施設別の内訳は表1−1のようになっている。 これらの駐屯施設は、いずれも日本側からの接収物件であるが、この中で「函高水学校」は函館高等水産学校を指し、現在の北海道大学水産学部の前身であるが、この時期には、昭和19年の改正で函館水産専門学校と呼ばれていた。「水産学校」は北海道庁立の実業学校で、現在の函館水産高等学校である。「共愛会社」は共愛会館のことで昭和12年に建設され、財団法人函館共愛会が入っていた「総合社会福祉館」とでも呼ぶべき施設である。また、「千北ヒルデング」は函館信用組合の仙北ビルデング、「ビルデング」は金森ビルデングのことで、「稀島旅館」は「キト旅館」かと思われるが、不明である。
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