通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 8.15の回想と記憶 |
8.15の回想と記憶 P41−P42 日本が敗戦を迎えるのは、この報告書の提出から約2週間後のことであった。当時の函館市長は弁護士の登坂良作である。後に登坂は、「終戦は、八月十五日にラジオで聞きました。函館八幡宮の例祭の式典がすんで、社務所に集った時に放送されました。みんなで聞いてみんなで涙を流しました。どういうことになるだろうかと思いました。……私は、終戦で、占領軍が上陸して来れば直ちに退任させられるものと思っていました。ところが、向うは上手で、退任させず、それをうまく使おうとします。それで満期までやらされたんです」と敗戦時の状況を回想している(登坂良作『終戦前後』豆本海峡4)。また、敗戦の2週間前に尼崎から函館に疎開してきた一市民は、8月15日の記憶を次のように記している(道南の歴史研究協議会『道南の歴史特集−私の終戦史』)。昭和二十年八月十五日水曜日、函館は快晴で静かな暑い日だった。私はNHK・JOVK(旧南部陣屋跡)の下通りで前日に引き続いてこの朝も建物疎開の跡片付けをした。昼近くになり、リヤカーを引いて帰宅を急いだ。函館もこんな暑い日があるのだなあと思いながら汗を拭いた。帰って見ると、両親はじめ家族一同は「正午に天皇陛下の重大放送がある」という。「何んだろう」戦争中止か、それとも一億玉砕かと、各人各様に思った。とにかく初めて天皇陛下の玉音を聞くことになった。町会役員はメガホンで「重大放送を必ず聞くように」と触れ歩いていた。配電会社では定額制の家庭にもラジオが聞けるように特別放電をしてラジオが鳴るようになった。ラジオの前に正座した私達は、玉音を一言一句も聞き洩らすまいとラジオの雑音にも一層集中して静かに聞いた。初めて聞く陛下の声。六ケ敷いお言葉を追って理解するのに長い時間を感じているうちに終った。「ヤッパリ、終戦のお言葉だ」「イヤ、一億玉砕とのお言葉だ」。叔父が飛んで来て「戦争は負けた、終戦のお言葉だ」と念を押した。一同は「ヤッパリ、そうだったのか」と、一言もなかった。 |
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