通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
1 占領軍の函館進駐

敗戦直前の有識者の考え

8.15の回想と記憶

アメリカ軍の進駐を前に

進駐軍心得懇談会の開催

連合軍進駐への心構え

函館署の注意事項

アメリカ軍の進駐開始

「教務日誌」にみる状況

アメリカ軍の上陸と駐屯施設

北海道進駐のアメリカ軍兵力

占領行政の開始と土地・建物の接収件数

司令部が置かれた五島軒

将兵の宿舎・函館水産専門学校

「衛生」部隊が入った共愛会館

一時接収のゴルフ場

8件残して接収解除

進駐アメリカ軍のその後

敗戦直前の有識者の考え   P40−P41

 昭和20(1945)年7月26日、アメリカ合衆国トルーマン大統領はドイツのポツダムにおいて対日共同宣言を発表した。このいわゆるポツダム宣言は、連合国側のアメリカ、イギリス、ソ連の3首脳の会談で採択され、さらに中国(重慶の蒋介石政権)の同意を得て、アメリカ、イギリス、中国の3首脳の名で、日本に対し宣言されたものである。日本への降伏勧告とともに、軍国主義の除去、日本の軍事占領、領土の制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰と民主主義の復活強化、基本的人権の確立、軍需産業の禁止などを要求するものであった(外務省編『日本外交文書竝主要文書』)。
 昭和20年8月1日、熊谷憲一北海道庁長官は「米英重慶ノ対日共同宣言及英内閣更迭ニ伴フ部民ノ意嚮ニ関スル件」を内務大臣の安部源基宛に報告した。この報告書は、上記の件に関する札幌や小樽、旭川・室蘭・函館・岩見沢・稚内に在住する有識者からの意見を取りまとめたものであるが、報告書の表題の「米英重慶ノ対日共同宣言」とは、前述のポツダム宣言を、また「英内閣更迭」は、翌7月27日、イギリスでアトリー労働党内閣が成立したことをそれぞれ指している。日本政府は、7月28日に鈴木貫太郎首相がこの「ポツダム宣言」を黙殺、戦争を邁進することを表明し、それが8月6日の広島への原爆投下の伏線となった。

平塚常次郎
 この報告書で函館市に関わりのある人物は、大島寅吉代議士、函館船渠(株)社長富永能雄、日魯漁業(株)社長平塚常次郎の3名であった。彼らは、この報告書の中でどのような主張をおこなっていたのだろうか。
 まず大島代議士は、とくにポツダム宣言に関し、「ポツダムニ於ケル米英蒋ノ対日共同宣言ハ彼等ノ常套手段タル謀略デアツテ、如何ナル宣言ヲシヤウトモ何等効果ガナイダラウ、彼等ハ寧ロ戦争ノ終結ヲ焦リ、自国民ヲ戦争ヨリ遊離サセナイ為ニ勝利ニ自信アリ気ナコトヲシテ戦後処理案ナドト銘ヲ打ツテ協議シテイルノデアル。日本ノ戦局ハ現在勝敗ノポイントトモ言フベキ最モ重要ナ時期ニ直面シテイルカラ、国民ノ必勝信念ヲ更ニ昂揚スベキ強力政治ガ必要ダ」と述べて、「日本ノ戦局ハ現在勝敗ノポイントトモ言フベキ最モ重要ナ時期ニ直面シテイル」ことを認めながらも、結論は「国民ノ必勝信念ヲ更ニ昂揚スベキ強力政治」の必要性を指摘している。
 また、函館船渠の富永社長は、「敵ノ宣言スル和平条件ハ全ク無条件降伏デ、世界ヲ支配セントスル野望ノ現ハレダ。日本人トシテ此ノ謀略ニ乗ル者ハナイト思フ。併シ国内戦場化ニ伴ツテ戦局ニ就テ不安動揺シ、敗戦和平的分子アリトセバ断固一掃スベキダ、チャーチル内閣ノ倒壊ハ世界情勢ノ転換ヲ斎シ日本ニ取ツテハ将ニ神機デアル」とかなり強烈な意見を述べている。
 これに対して日魯漁業の平塚社長は、「政府ハ閣議ヲ開キ米英蒋共同宣言ヲ黙殺スルコトニ決定シタトイフガ、吾々国民トシテハ何故黙殺ナドスルカ、寧ロ堂々ト日本ノ大方針ヲ発表挑戦スベキダト思フ」と述べ(粟屋憲太郎他編『国際検察局押収重要文書(1) 敗戦時全国治安情報』第2巻)、「挑戦」という言葉を使用しているとはいえ、大島、富永のような鮮明な抗戦論とはやや異なる発言をしているのは注目されるが、平塚常次郎も、大島寅吉と富永能雄ともども、敗戦後にGHQによって公職追放された。
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